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【ショートショート】月下独酌

窓を開けっぱなしにしている。

10月17日。
日没がすっかり早くなった。
まだ18時なのに、横浜はもう闇の中。

今夜はスーパームーンらしい。開けっぱなしの窓から月の光が差し込むのを待っている。

毛玉だらけの彼のお下がりのトレーナーを被った。37.5℃の微熱のせいか、長袖では少し暑い。左腕を捲ると、消えない根性焼きの跡、四つの赤紫の点が覗いた。私の弱さも強さも、全てが暴かれた気持ちになった。

300円の白いサンダルを引き摺りながら坂を下った。底が擦れてもどうでもいい、私のサンダルでは無いのだから。

誰かの庭から金木犀の香りがしたから、きのこ帝国の「金木犀の夜」をヘッドフォンで聞いた。風邪のせいか耳が詰まっていた。いつもより1段階音量を上げた。
頭が重いのは、風邪なのにヘッドフォンを付けているせいか、昨夜遅くまで文選の白文を読んでいたせいか。

元気ならば7分で辿り着くファミリーマートに12分もかけて到着した。気がつけばヘッドフォンからは「猫とアレルギー」が流れていた。

店員のいらっしゃいませの声に会釈する元気もなかった。悩む間もなく、350mlのサッポロ黒ラベルと、つまみに堅揚げポテトのブラックペッパーを手にしてレジに向かった。ぴったりの金額を払って、財布からこぼれた一円玉をだるそうに拾った。短いネイルにしてよかった。
立ち上がってレシートを捨てて、ファミリーマートを後にした。

残り7本の命から1本を頂戴し、風が吹いていないのにジェットライターで火をつけた。カサつく喉に鋭いメンソールが刺さった。変な咳が出るが、医者は「喉は大丈夫そうですね」と言っていた。診察の雑な医者であったが、その言葉を信じて、思い切り吸ってやった。勿体ないから根元まで。やはり変な咳が出た。
灰を落とすのを忘れていたら、左手の人差し指に火の粉が飛び移った。この熱さには慣れていた。ふっと息で払ってまた変な咳がでた。

結んだ燃えるゴミの袋の隙間に吸殻を隠してゴミを出した。また白いサンダルを引き摺りながら、3階まで階段を上がった。このアパートにはエレベーターがない。骨折でもしたら生活できないと思う。五体満足のやつしか受け入れない、なんとも冷酷なアパートである。

部屋の前について暗証番号を一回間違えたが、無事に部屋に辿り着いた。お手洗いで五分ほどぼんやりとして、流して手を洗った。妹がハンドソープの液体を詰め替えてくれていたらしい。綺麗な肉球の形をした泡が出た。

部屋の電気は付けぬまま、開けっぱなしの窓のカーテンを全開にした。そこには、昨日東京で見た月と大差ない“スーパームーン”とやらが浮かんでいた。

サッポロ黒ラベルをスーパームーンの光に1分あてて、その光の不思議を缶に詰めた気になった。満足した私は、濡れた手でタブをあけた。ネイルを短くしておいて本当に良かった。
カコッと虚しい音がした。
不安になって、詰めた不思議が全て出ていってしまう前に、急いで一口飲んだ。美味い。

「黒ラベル以外のビールが飲めない。」月に呟いた。もちろん返事はなかった。無口な月を憎らしいと思った。まじまじと観察してやった。月の暗い部分が、昔の人には蟹に見えたり兎に見えたりしたそうな。今日の月には何がいる。

何もいなかった。踏んずけて歪んだケースから、黒縁の眼鏡を取り出し、かけてみた。でもやはり何もいなかった。

月とは心底つまらない奴だ。沈んだ太陽の光のお零れを貰って輝き、その存在を我々に知らしめ、地球にたまたま近づけば“スーパームーン”なんて偉そうな名をつけられる。
月は自分一人では何もできないのだ。太陽を頼らないと輝けぬ、ちっぽけな存在。その太陽のお零れを貰って輝く、月のお零れをもらって、缶ビールを片手にした私の影が揺れている。

私とは心底つまらない奴だ。太陽のお零れを貰って輝く月のお零れをもらって輝いておきながら、誰にもその存在を知られない。もう誰にも名前を呼ばれない。そこにいるのは、私と、缶ビールと、未開封のつまみと、その影。

まだ3分の1しかビールを飲んでいない。もうこれ以上飲みきれない。熱も上がった気がする。せっかく買ったので、つまみを開封して食べる。

自分と同じ動きをする私の影は、私のつま先から離れて、口に堅揚げポテトを放り込んでくれるわけでも、ビールの残りを飲んでくれるわけでもない。

かつてそんなことをしてくれた人がいたっけ。飲みきれないビールを飲み干してくれて、互いの口に食べ物を放り込み合って、味を共有したことが私にもあった。
影では無いその人は、踊ったり歌ったりしてみせた。私を抱きしめて髪を撫でた。私のあだ名を呼んで、照らされた私を綺麗だなんて言っていた。それだけで生きていることを実感した。

月はあの人のものだ。
まだそのカードを返せないでいる。
月を私が独り占めした気でいられるように。
私以外の誰かを月が照らしてしまわぬように。

飲みかけのサッポロ黒ラベルにラップをかけて、冷蔵庫にしまった。食べかけのつまみの袋の口も結んだ。
ゆっくりとお風呂に入って、換気扇を回して、髪を乾かした。洗濯物を畳んで、妹の帰りを待つ。

窓を閉めようと外を見た。
もうそこにスーパームーンは浮かんでいなかった。
きっと、厚い雲に隠されてしまったのだろう。

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