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「有事の際」に儒教が果たす役割とは

ロシアによるウクライナ侵攻が続いています😰

戦争とは「正義と正義のぶつかり合いである」と誰か言ってた気がします。

ロシア・ウクライナ双方に「言い分」はあるのだと思いますが、ロシア側の「言い分」はこんな感じ👇

ウクライナ東部の紛争でロシア系住民の安全が脅かされている。だから軍事的解決を取らざるを得なかった。

ほうほう、そうなんですね・・・。

「ロシア軍は一般市民と民間施設を攻撃することは無いです」

「ロシア軍は一般市民と民間施設を攻撃することは無いです」

なるほど、なるほど・・・。って

さて、今回は前回に続き「有事の際に宗教ができること」について考えてみます。前回仏教で、東日本大震災のような天災による社会混乱に対し仏教にしか果たせない役割はたくさんあるものの、今回の戦争のように人為的な社会混乱に対しては仏教にしか果たせない役割は多くないのではないか、と書きました。

今回は儒教です。有事の際に儒教ができること、儒教にしか果たせない役割はなにか?を考えてみました。

結論から言うと儒教は仏教です。

儒教は戦争のような人為的な社会混乱に対して貢献できるところがありますが、天災のような社会混乱に対してできることは限定的だと思います。

①「戦争」における「儒教」

仏教」が目指すものをものすごく乱暴に一言で言えば「個人の救済」です。一方「儒教」が目指すものを一言で言うなら「社会の安定」でしょうか。あるいは「組織の浄化」?

儒教は仏教や道教と違い、死後の世界とか前世とかは一切考慮しません。基本的にターゲットは現世、今生きているこの世の中です。私達は皆「健全で愉快な安定した社会を作る」というミッションを担って人間としてこの世に生を受けたのであって、その使命を全うして生きるとはどういうことか?ということを儒教は説きます。まぁ、ぶっちゃけかたっ苦しいですね笑😅

そもそも、なぜ安定した社会を良しと儒教は考えるのか。それは安定した社会の実現が「宇宙の法則」に適ったものだからです。それが天地の厳然たるルールであり、ちっぽけな人間もそれに従って生きるのがよいんじゃないのと考えます。

宇宙の法則」だなんてワードを使った途端に胡散臭いオカルト感がしてしまうのであまり使いたくはないのですが、北極星を中心とした天体の秩序立った動きを地上に降ろすというのが儒教の根源的なコンセプトです。

北極星を中心とする秩序立った天体の動き

この宇宙の秩序を地上で再現するための方法論が「仁義礼智」などの徳目です。人々がこれらを実践し互いにを振るようになればこの地上に秩序が保たれ、愉快で安定した場所になるというのが儒教(というか儒家思想)の考え方です。

儒教と宇宙の話はコチラ👇でも少し書きましたが、誤解を恐れず言えば「ビジネスマナー」みたいなもんです。お互いがそのルールを承知し、それに則った行動をとることで余計な摩擦や衝突を生むことなくスムーズにビジネスが進められます。

で、この「宇宙の法則」を乱す人間はいつの時代にも出てきます。

想像してみてください。

あなたは今、オーケストラのコンサート会場にいます。あなたも含め聴衆は皆、マナーを守って静かに調和の取れた旋律に聴き入っています。ところが突然、あなたの隣に座っていた人が立ち上がって大声で騒ぎながら、前の座席を蹴り出したとしたらどうでしょう。実際のコンサート会場なら速攻で警備員が駆けつけてつまみ出しますよね。

衝突や混乱は国同士の戦争というレベルじゃなくても起きます。例えば家庭崩壊、学級崩壊、職場崩壊。人間関係。これは「宇宙の法則」に即してないため、秩序が失われた状態です。

え??じゃあ儒教者はプーチンに対して『宇宙の法則を取り戻せ!』とか説教するっていうの?www

ってことになるのですが、普通に考えてムリゲですよね。そもそもプーチンが儒教のこと知らないだろうし。

じゃあ儒教に何ができるの?って言うと、儒教の精神を社会の安定のために体現する実践的なアクションが1つあります。それが諫言(かんげん)です。

諫言(かんげん)とはなにか

諫はめる(いさめる)という動詞で使います。「諌める」とは「誤りやよくないところを改めるよう注意する」ということです。

儒教の原産国である中国では、それこそ古代(紀元前ン千年)から、為政者の側には必ず諫言役の人がいました。トップリーダーにとっては耳の痛いこと、一度決めたことを覆す結果になろうとも、それが正しいこと、道理に沿ったこと(=宇宙の法則に則ったこと)であれば進言するのが諫言役の役目です。

もちろんトップリーダー自身が常に正しくあることが理想ですが、トップリーダーといっても所詮は一人の人間です。ときには私欲や私情に駆られて宇宙の法則に反する決断や選択をすることもあります。そういうときに諫言役がいれば「それはいけませんぞ!!」と軌道修正できます。

会津藩流に言えば「ならぬものはならぬ」です。

中国史上最も安定した治世を築いた唐の太宗は、諫言役の側近を重宝していたことが貞観政要の中で書かれています。この貞観政要を座右の書としていた徳川家康は、二代目以降の歴代将軍にも必ず諫言役を置くように厳命していました。諫言する人の存在がいかに重要であるか理解していたからです。

諫言役に求められる素養はなにか

諫言は誰にでもできることでしょうか?「」の字の原義は「礼儀をもって正す」であり、ひとことでいえば「正す」です。他人の決断や行動を「正す」ためには「正しい」とはどういうことかを知らなくては務まりません。

そもそも「正しい」ってどういうことでしょうか?

」の字をよーく見てください👆

」と「」からできています。

」という字は「この線の前で止まれ!」という意味です。

この線」とは ”人として越えてはいけない一線”です。この一線のことを規範と呼びます。規範がどこから来るかというと宇宙の法則であり、人間界に落とし込んだ実践徳目としての仁義礼智です。

中国では為政者はもちろん、その側近も仁義礼智と歴史をしっかり叩き込まれた人(文人)しか就けません。教養のない武人は出世できないシステムになっています。「科挙」という公開試験制度もそれを下支えしてしていますが、要するに「規範をわきまえた人」が側近として仕え、為政者が道を踏み外しそうになった時に

「それをやっちまったら、宇宙の法則から外れて破滅しまっせ!」
「古来より、宇宙の法則を外した国はこうなってますからね!」

ということを堂々と言えるわけです。

余談ですが、COTENラジオの「武則天」の回でも深井さんが次のように言っていました。

(絶対権力者である武則天に諫言する側近のエピソードを紹介して)
「命を掛けてでも(武則天)に言ってやろうという人が出てくる、こういう人が出てくるのってやっぱスゴイよね中国王朝って」 (3:40くらい)

日本の諫言は武士道として発展

日本における諫言の文化では「武士道」の中で根付きました。もともと「武士道」は主君のために命がけで忠誠を尽くす武士のあり方を説いたものですが、血なまぐさい戦国時代においては死を恐れず勇猛果敢に主君のために戦うことが武士道の体現でした。

しかし、文治政治に切り替わった江戸時代以降は、武力など血なまぐさい行為での武士道の体現は難しくなり、諫言が「主君のために忠誠を尽くす」という武士道を発揮する重要な場になっていきました。

武士道のあり方を記した「葉隠」という有名な書物がありますが、その中にも

「奉公の至極の忠節は、主に諫言して、国家治むる事也」

葉隠 聞書第二

とあります。ほかにも葉隠には「諫言」に関する作法や心構えがたくさん書いてあります。

なぜ江戸時代の武士が諫言できたのか?というと、徳川幕府の公式学問に採用されたのが儒教(儒学)だったからです。儒教は日本には4世紀頃には伝来していたのですが、国として正式に普及したのは江戸からです。

この儒教(儒学)教育は武士階級だけでなく、寺子屋などの社会インフラを通じて士農工商に広がっていきました。「幕末・明治期の人達は上から下まで皆、人格が立派だった」という理由の一つに、この規範形成教育が国家的に実践されていたことが挙げられます。

話を戻すと、もしプーチンの側近に「命をかけてでも諫言する」という気概と教養を持つ人がいたなら、そもそも今回のような暴挙は起きなかっただろうということです。プーチンの周りには自分のことしか考えないイエスマンしかいなかったのだろうと思いますが。いま側近でなくとも、仁義礼智を備え諫言の作法を心得ている官僚や在野の識者がいればプーチンが侵略という最悪の選択をする前に踏みとどまらせる手立てがあったかもしれません。それは今からでも決して遅くはないと思います。

周りにイエスマンしかいなくなったトップリーダーとその国がどういう末路を辿るかは洋の東西を問わず歴史が証明しています。最後は必ず破滅を迎えます

②「天災」における「儒教」

正直、儒教的な立場から「天災」に対して「諫言」などナンセンスもいいところです。そもそも天災そのものが宇宙の法則の発露だと見るわけだし。。。

強いて言うなら「天人相関説」の観点から、この天災がどのようなメカニズムで起きたか説き、トップリーダーに今後の善政を期待するプレッシャーにするという役割は果たせるかもしれません。

でも、天災で大切なものを失った市井の人々に「天人相関説」なんて説いたところで響くとは思えません。むしろ私が当事者だったら

「こっちは失った悲しみで一杯だよ!今は正しさがどうとか分からん!!」

ってなると思います笑

孟子も「恒産なくして恒心なし」と言っていますが、極限状態に追い込まれた人の心を癒やすのは「規範」などではなく「慈悲」だと思うので、そういうときには圧倒的に仏教の出番で、儒教に出る幕はなさそうです。

あるいは易経や陰陽論の観点から「良いことと悪いことは、トータルで見れば偏らず必ずバランスよく訪れる」ということを説くとか・・・。うーん。私だったら色々失って悲嘆に暮れた状況で聞けるような話じゃないです笑

まとめ

今回は「有事の際の宗教の役割」として仏教と儒教を取り上げました。どちらも東洋発祥で私達の精神基盤になっているものですが、それぞれ得意とする分野が違うことがわかります。日本には他にも神道と老荘があります。これらは「有事の際」という観点での特性は私が思いつきませんでしたが、別の分野ではそれぞれの特性を存分に発揮しています。

仏教と儒教は他にも色んな観点で違いがあるので、今後も比較してみたいと思います。

おしまい。

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