家族神話にメスを入れる|「空中庭園」
今日は小説にハマるきっかけになった本を紹介したい。
その本を読んだは大学2年生の時だったと思う。
当時、読書は僕にとってかなり頑張らないとできない芸当だった。
小説には風景描写とか心情描写があり、そういったものに慣れないので、読むのに物凄く時間がかかった。
その時期に買った本で挫折した本は数知れない。
やはり読書よりも映画とかテレビドラマを観てる方が圧倒的に面白かったし、楽だった。
そのうち書店よりもDVDを借りにTSUTAYAに行くことの方が増えていった。
ある時、ふと目に止まった「空中庭園」という映画を借りてみた。パッケージから家族の映画だというのはわかった。
家族映画というのはあまり観たことがなかった。僕が映画とかドラマで関心のあったジャンルはミステリー、サスペンス、ホラーといった分野で、恋愛とか感動ものにはあまり興味がなかった。
そして当時の自分は、家族映画は感動系に分類されるものだと根拠もなく思い込んでいた。
きっと何か問題を抱えている家族が登場するのだろう。
そこで衝突を繰り返しながら少しずつ互いの必要性を認め合い、最後は涙ながらに抱き合って終わるのだろうな、と偏見に満ちた目で見始めた。
ところが実際に観てみたら、予想を見事に裏切られた。
湿っぽさがほとんどない映画だった。
冒頭から不安を誘うような映像が流れる。
ホラーと見紛うようなシーンも何度か登場し、最後まで緊張が抜けなかったのを覚えている。
こういうダークな家族映画を観たことが無かった自分は衝撃を受けた。いわゆる雷の落ちた感覚である。
当時は自分の家族に違和感、不信感を感じ始めていたタイミングであり、それを目の前に突き付けられた気がしたのだ。
今度は原作も読んでみたいと思い、角田光代の同名小説を読んだ。
そこでまた別の方向から雷が落ちた。
なるほど、小説ってこういう面白さがあるのかと思った。
今まで小説というのは映画の内容をより詳しく書いている、というくらいの認識しか無かったのだが、小説でしか成し得ない表現があることを初めて知った。
その上この本はかなり読みやすい。
あらすじを知っていたことも大きいけど、凝った表現が少ないので文章がすらすら頭に入る。
読みやすい文体というものがあることもこの時初めて知った。
思えばそれまで小説と映画は自分の中で結びついたものだったが、そこから徐々に枝分かれし、独り歩きを始めた。
もっと他にも面白い小説があるに違いない、と読書へのモチベーションが一気に上がった。
本というのはタイミングが大事だと言われているが、この時ほどタイミングの合った感覚は以降味わっていない。
この話の中心になるのは母親、父親、長女、次男の4人家族である。そこに母方の祖母と父親の浮気相手である女が加わり、計6人が交代で自らの話を語るという構成になっている。
この家族には「何事も包み隠さず」という掟があり、子供たちがいつどこで性交してできた子供であるかまで気軽に話してしまうような、一見すると打ち解けた雰囲気の家族である。
しかし、それぞれの内面が語られていくうちに、実は非常に弱い繋がりでしかないことがわかってくる。
この家族が解体されていく様を見て、自分の内でも何かが崩壊した。
家族というのは絶対的な善で、一番わかり合える存在だと思っていた。そう思わなければいけないとどこかで思っていた。
他人をいたずらに疑ってかかることは良いことではない。でも他人の善意にしか目を向けないのも決して良いとは言えない。
そこには甘えがあるから。
「あなたはきっといい人に違いない」と思うことは、同時に「私の期待を裏切るな」と言ってるようなものだからだ。
相手にも自分にも利己的な感情が潜んでいるという前提に立たなければ、他人を理解したり受け入れようという気持ちすら生まれない。
家族というのは無意識に互いに甘えてしまうものだからこそ、わかり合うのが難しいし、一度こじれるとなかなか元には戻らない。
どんな家族にも外から窺い知れない何かがあるものだと思う。
かつて仲の良さそうな家族が目に入ると羨ましく感じた時期があったが、それも一つの錯覚だろう。
"家族って一体なんなのか?"がこの本の主題だ。
家族というのは血の繋がった他人同士の寄せ集めでしかない、というのが自分の出した結論である。
かなり後ろ向きな考え方かもしれないけど、絡まった糸を一度断ち切り、また新しい糸を紡ぐためには有効な考え方だと思っている。