「前後不覚」の哲学的な意味とは
よしなしごと【気まぐれ選65】
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
有名な詩の一節(『道程』高村光太郎)である。
僕がこれから進む前方には、ただ大平原が横たわっている。僕が今まで歩いてきた平野には、確かな一本の道ができている、という心象風景。
もちろんこれは心の中のイメージであり、現実に振り向いてみても、そこにブルドーザーがいたり、アスファルト舗装の道路工事がが行われているわけではない。
意味としては、僕の進む先(前方)にまだ道はない(ゆえに無限の可能性がある)、僕の通ってきたところ(後方)には、道は確かにできている(困難を乗り越えてきた人生の証し)・・、ということであろう。
ただ、ここに「未来」とか「過去」といった、時間の観念を持ち込むと、少しややこしいことが起きてくる。つまり時間でいうと、「未来」は「後」であり、「過去」は「前」であるからだ。
たとえば、「僕は3日後に彼女と会う」は未来である。「僕は半年前に、彼女と別れた」は過去である。時間にとって、未来は「後」で、過去は「前」である。
詩に戻ってみると・・
「僕の前」とは、果たして本当に「未来」なのか。
「僕の後ろ」は、「過去」と言い切れるのか。
空間と時間の観念が重なることにより、心象世界は、その意味を交錯させる。
たとえば、部屋の中に大きな鏡を2枚向かい合わせに立てると、前には後が写り、後には前が写り、それがまた前に写り後に写る・・。その永遠の繰り返しは、概念である「無限大(∞)」が具象化された光景である。
「前」は未来であり過去である。「後ろ」は過去であり未来でもある。かのごとく、一瞬、時空間のパラドックスが成立したか、あるいは時間は未来から過去へ遡行するかのようにも思えるのだ。
と、いうようなことを考え続けていると、いつしか意識の時空間が歪んでくるのがわかる(ソーダ水の泡の中を貨物船が通ったりもする)・・。これを哲学的には「前後不覚」と呼ぶ(一般的には居眠りとも、「舟をこぐ」ともいう)のである。
【よしなしごと0106・2005年9月23日 (金)掲載】