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理あ彼~後編・理解という名の煉獄~

昨日投稿した記事の続き🫏

あらすじ
何かを隠した男と理解を求めた女が結婚して、私が生まれた。


理解のある父と理解を求め彷徨う母

私が物心ついた時から母親の情緒は不安定だった。
もちろんその瞬間に気が付いたわけじゃない。

何せ私にとっては、それが普通で疑いようのないスタンダートだったから。


母の情緒の揺れ動きに呼応するように父親は怒った。
年端も行かない子供に対して母親に優しくするようにと怒鳴っているのが日常。

例えば、私が食事に対して好き嫌いを発動させると母が泣き叫ぶ。
その後、父が飛んできて私を殴る。
今にして思えばそこまでのわがままでもない。
子供なら一度はする要求だと思う。

でも父はそれを許さなかった。
父は私よりもずっと母親のことが大事だったのだ。


これだけにとどまらず、母はとにかくなんでも自分の手柄にしたがる人だった。
それに気が付いたのは小学生一年生の頃。
私が夏休みの宿題で作った模型が学校の中で優秀作品に選ばれ、銀行に展示されることになったのだ。

私は喜び勇んでそのことを母親に報告すると、母親は見ていたテレビから目線を外さず「私がアドバイスしたからだね」と言い放ちせんべいを食べていた。

大人となった今、それが仕事なら理解できなくもないが私は子供。
手柄と言っても程度が知れている。
それすらも自分の手柄にしていた。


子供の頃の記憶なのに今もはっきりとその光景が目に浮かぶほど、印象的な出来事だった。

私の中では絶対だった母親がとても小さく見えたから。


それでも父親は母親の味方をしていた。
今表現するとすれば「母親を困らせている子供を叱る理解のある彼君」って所かな?
今考えると、とても狭いコミュニティに生きている子供たちという印象を受ける。
しかしそれは全くの見当はずれだった。


理解を求めた母とずっと前から限界だった父

それから何年間も似た状況が続いた。
私たちが何かをして、母の感情を高ぶらせ父がそれに怒って殴る。
弟が生まれたりしたが、状況は変わらず。

ただ、恐ろしいことに、私も弟もある時期からその状況に慣れ始めていた様に思う。
生まれて初めての家庭がこれなので不思議でも何でもない。


慣れに伴って、私たちに変化が現れた。

弟は他人が感情的になるようなことをしなくなった。
私は他人が感じた感情を読み取るようになった。

弟はどちらかというと受け身。
私は積極的に感情を読み取れるようになったので攻めだろう。

そんな私はある日気が付いた。
父の感情の不自然さに。

大抵人間というのは原因がなければ怒ろうとしない。
その原因が読み取れれば、起こらせている張本人でさえも怒りを回避できる。

私もそうだった。
同級生や先輩に先生などの感情を察知して先回りできるようになっていた。
しかし、父親だけは先回りができなかった。

それもそのはず、父は私と弟に対して怒ってなどいないのだから。
母親の高ぶった感情に呼応する形で怒っていた。

つまり父親の怒る原因は母親で、母親の高ぶる感情の原因が私だっただけということ。

これに気が付いたのは中学生の時だ。
その瞬間、私は思い出した。

かつて、父が行楽地に私を連れて行った。
到着した行楽地はどこも家族連れだった。
どうして弟と母を置いていったのかはわからない。

しばらく歩くと女性が手を振って歩いてきた。
女性は私を見もしなかった。
そのうち二人は手をつないぎ始めた。
私は一人で水筒を両手に持って歩いていた。

そのうち父は「ここで待っていろ」と言い放ち、女性とどこかへ消えた。
私は言いつけを守っていた。
時折、見かねた人たちから「家族はどこ?」と質問を受けたが私はここで待っていろと言われたと伝えた。

すっかり太陽が夕日に変わった時間に父は帰ってきて、私は行楽地を楽しむことなく帰宅した。

この思い出を思い出した。
そしてすべてを理解した。
「あぁ、親父はずっと前からお袋を見放していたんだな」。

それからもっと時間がたった十年後、父が日曜日になると消えていたそして母にせびったお金がどこに行ったのかが分かった。

全て競馬と競輪と競艇に消えていた。
あまつさえ、私の給料からもくすねていた。

私は父親の亡骸を引っぱたいた。
母親は疲れ切った表情でそれを見ているだけだった。

理解のある彼君だった父親の哀れな末路だ。


理解を求めない息子たち

これまでのお話を通して、分かったことがある。
それは「理解」という名の甘やかしのもたらす影響が長くつづくということ。

理解には際限がない。
理解とは結局のところ、人間が社会性の動物である以上常に求め続けるものだろう。
それが社会で受け入れられないとき、人はそれを個人に求める。

しかし、所詮個人の与える理解など限界がある。
理解とは愛。
そして愛は有限だ。

有限な愛を無限に求め続ければ、私の父と母のような結末を辿るのは想像に難くない。


ただ、それが全カップルに当てはまるかというとそうではないと思う。
どちらかが本当の愛をもって接していれば防げたはず。

しかし、私の両親にはそれがなかった。
無くなったわけではない。
初めからそういう関係性だったと思う。

母は父に男よりも理想の父親像を求めていた。
父は母に女よりも財布としての機能を求めていた。
抽象的な概念と経済的な機能。
相反しているように見えるが、その実、父親であれば両方持っていてもおかしくない。
皮肉なことに私の両親はともに理想の父親としての機能を求めていたのだろう。

理想の父なき子たちが結婚するとこうなる。
そして、その子供たちには父も母も家庭に存在しない状態を長く経験するという悲劇が待っていた。

まさに終わることのない煉獄。
その始まりは全人類が求めている理解から始まった。

ただ、便宜上「悲劇」と呼称したが、私自身はそうは思っていない。
私はこの経験を変えがたい良いものだと確信している。


どう考えても私と弟の親ガチャは失敗している。
だが、取り返しのつかないほどの失敗だとも思っていない。
この経験によって危険察知能力と自己管理の重要性、なにより自立する力強さが身についた。

これはモノがあふれていて、情報も簡単に手に入る現代では逆に経験しにくい経験のはず。
私と弟は自ら望んだわけではないもののそれを手にしている。

私は学習障害によっていい大学には行けなかったが、弟の方はいい大学と言い企業に就職できた。
ホンワカ大学出身の私ですらも飯が食えて贅沢もたまにできるだけの収入はあるし、つい先日平社員から出世コースに上がるために試験に合格した。

これらの現状は、私と弟が頑張ることを苦にしない精神性を持っていたからに他ならない。

その精神性は間違いなく家庭で育まれた。
学校でも家庭で居場所がない十年間を経験したならば、たかだか一年かそこらで何とかなるかもしれない希望が見いだせる職場など、いくらでも頑張れるさ。

このように、親ガチャを失敗したとしてもなんとかなる。
そりゃ、劣等感の10や20は持っている。
でも、劣等感じゃ死なないしもしかしたら跳ね返せるかもしれないじゃないか。

跳ね返せた時の興奮ったら凄いぞ🫏
親ガチャ失敗勢のみんなもあきらめずのそのそと頑張ろう。
低収入の私も頑張るからさ。


ご褒美

ここまで読んでくれた人には親ガチャ失敗した際の隠れざる「本当の」苦しみをお教えしよう。
ご褒美。

親ガチャ失敗した子供たちの中で、何人かは成功するだろ。
大半は苦痛を抱えたまま普通に過ごす。
残りは、残念なことにさらなる悲劇を経験することになる。

ただ、乗り越えたからと言って悲劇がないわけではない。
現在私も困っている最中だ。

その悲劇とは「機能不全家族」「学校と家庭に居場所がない」という劣悪な環境の中で頑張ることでしか達成感を感じられなくなるというものだ。
何をしても達成感が感じられない。
本当に何をしても。

基本状況が最悪のまま育った経験が、大人になって自立した現状を「恵まれたもの」と認識させているのだろう。
恵まれているからできて当然、恵まれているからうれしくない。

大したことがないように思われるかもしれないね。
でも、もし、私が更なる達成感を求めて酷い事故にあったらそれこそ取り返しがつかない。
加えて、今現在も家庭で受けた傷が癒えているとはいいがたい。

傷を抱えてもなお、家庭に似た環境に戻ろうとする引力が確かにある。
今は我慢しているが、いつまで我慢できるかも正直分からない。
こうして、例えかつてよりマシになったのに幸せになれない元子供が生まれるのだ。


これを悲劇と言わずして何と言おう。
まぁ、他人から見たら喜劇なんだろうけどね。

はははは。


でも、悩みなんてそんなもんだと思う。
推移し気が付けば別のことを悩んでいる。

この記事の主人公が両親から私に推移しているのと同じようにね。

#この経験に学べ

#お金について考える

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