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プロの書き手じゃない私が下手でも伝えたいこと

表現の自由、と言ってしまえばそれでお終い。
もう少し突っ込んで書きたいというか、伝えたい何かがある。

何か、とは何か、はっきりさせるのには、書いてみないとわからない。
今回は、実況中継方式の書き方で進めていく。

まずは、私の国語力から、かな?


小・中学時代はすらすら作文が書けて、自信もあったし、楽しかったな。読書感想文とか人権作文で入選したことがある。

でも、中学時代の我慢の影響で抑うつ状態が高校の時に現れ、書くことは愚か、文章を目で追うこともできなくなった。例えば、宿題の100字要約はできない、とか、大学受験追い込み期なのに500字の小論文に2.5時間かかる、とか。

なんとか大学に進学したけど、ここままではまずいと思い、精神科を受診したし、日本語復活に向けて努力したつもり。毎週感想文を提出する授業を積極的に取り、英語の訳から日本語を吸収する作戦を取りもした。

英語の訳から、のお話は、以前にさせていただいたことがあるので、こちら↓もよろしければどうぞ。

それで何を収穫したかといえば、
・卒論2万字を書いて卒業できたこと、
・この過程を通して自分の気持ちを「書いて」なら表現できるようになった(会話は苦手のまま)、
ということかな。

現在の国語力を表すなら、中学までの頃みたいに自信満々ってわけではなく、かといって高校の頃みたいに自信喪失中、でもない、中間ぐらい、と思っている。


現在の私はnoteに救われている


現在の私を説明するのに、もう少し補足がいるかも、と思っているので書きますね。

大学は、無職決定で卒業した。就活は猫をかぶって話したら、メンタルもダメになった。
それで、マイペースに事務のパートタイマーで初就労した、と思いきや、この辺りで「発達障害ASD」が明確に判明した。
その後は、働いては精神科に入院、退院しては就活、を繰り返していたと思う。

気づけば7度の入退院、3度の就労経験。
周りは確実にキャリアアップしているのになー、の比較もしなくなった。

そんなこんなで、「noteを書く生活リズムつくるのはどうですかー?」と今の主治医の先生にnoteの存在を教えてもらい、今日で丸3か月経つ。明日から4か月目に突入する。

この3か月、再入院をしなくて済んだのはどう考えてもnoteのおかげ。それは絶対書いておかないといけない。

それから、おわかりのとおり、書くことを生業にはしていない、ということも。


やっと本題にいけそうです


noteを始めた5月は、右も左もわからないけど【創作大賞2024】なるものにみんなが燃えていることだけは理解できた。
もちろん私も参加した。
テキトーな提出はひとつもせず、適切に参加したつもりだ。
その【創作大賞2024】の締め切りが済んで、ようやく、noteの平時の環境が見えてきた。

何が言いたいか。
noteには、書き手同士、コミュニケーションが取れる仕組みがあるが、
このコミュニケーションの捉え方がまちまちなんだなぁ、という感想。

「話す」と同様、「書く」というだけでコミュニケーションになる。
けれども、これに上乗せする形で、つまり書いた上でコミュニケーションをとる、と考えている方もいらっしゃる。

コミュニケーションって難しいね。。。はさておき、曖昧が苦手な者でごめんね。。。も加えて、

さまざまなコミュニケーションがある中、私は/あなたはどのスタンスでいきたいの?を文字化できる(タイミングにいる)人はした方がいいかもしれない…と思ったから、今に至る…

(やっと文字になったっ…!)


例えばたななこんぶの場合どうなのさ


私は、初心にかえれば、「話す」代わりとして「書く」手段を選んだはずなので、
何かしら投稿するだけでコミュニケーションの意思表示をしていることになる立場にいると思う。

でも、矛盾することもある。
毎日投稿を目標にするあまりに、投稿「公開しますか?」ボタンを押す義務感から、「これ、書いて(発言して)いい内容?」を精査できずに投稿した日もある。

だけど、人間。そんな日もあるさ。という余白を認められるかどうか?それは人それぞれ余白度がちがう。

余白度がちがって、苦しくなったから、今回書くことになった。

(ちなみになぜ毎日投稿が目標かというと、継続は力なり論で「書く」ことをリハビリと捉えているからです)


余白度の極端な例


余白が広い人は、「こんにちはー!」とフレンドリーに挨拶することを文字に打てる方だと思っている。

余白が狭い人は、「こんにちは、〇〇と申します」とつぶやきでは入りきらない感情をお持ちの方だと思っている。

これのどちらがいい、という話ではなくて、イメージとしてはWordの書式設定で余白を「標準」「広く」「狭く」のどれを選んでいるかにすぎない、ということが言いたくて、余白という言葉をチョイスした。

だけど、時として、余白が広いのはnoteではいけないことだ、その逆もまた然り、といういざこざが発生するんだな、「書く」という表現手段でも。とこの3か月で気づかされた。


つまりなんなのさ


コミュニケーションだもの、互い違いが出るときってあるよね。
それでも「書く」手段を選んでいる人、つまりnoterさんって、こまめに報・連・相できる人、多い気がしている。
仮に傷つけてしまったら「ごめんね」、傷つけられたら「悲しかったです」、書いたらいいと思う。

だから、たとえ私のように、プロの書き手でなかったとしても、文が長くても短くても、書く気持ちを持つ(込める)ことはできると思う。

下手くそでも、不器用でも、書きたいこと、やりたいことをやれたら、そんなしあわせなことはない、と思っている。

現在の私は、「書く」ができる環境にいてしあわせものです。

うまく言えないけど、最近思っていたことを書きました。

ここまでありがとうございました。

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