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「大きな共同体」への所属感のカケラを味わう ~水源のリトリート体験記~

ヒトというのは、いかんせん自我が強いものだから面倒くさい。

『私は』褒められなかった。あの人はいつも褒められている。
『私が』やったのに、みんなは当たり前のように扱う。
『私だけ』何をやってもうまくできない。

みんな、「私」が大事だ。「私」と「みんな」をはっきり分けて、時には「みんな」を敵とみなして攻撃したり、「私」を守ろうとする。

確かに、心は1人に1つで分かれているし、食べ物を食べたって他人のお腹は膨れないし、評価されるのは個であることが多い。

そうだけれど、個に囚われすぎているときは、なんだか生きづらさを感じる。

個と全体についてひたすら考える機会ができた。
みなかみで知り合ったコーチのしょうこさん(Tomaru)主催の、利根川の源流で行う『水源のリトリート』に参加したのがきっかけだ。

ひんやりとした空気の、雨がしとしとと降る森に足を踏み入れた。

「ただそこに在る」という、命のエネルギーを感じた。
たくさんの命が、そこには在った。

芽や雑草、たくさんの花、コケ、木、鳥、微生物、虫、動物‥
そこには利根川の最初に湧き出る綺麗な水がめぐって、大きく循環していた。

森自体が、大きなひとつの生命体のようだった。

1本の木の根本から、大小いろいろな大きさの幹が6~7本生えていた。

中には、斜め横に短く伸びて、葉が1枚もない幹もある。
おそらく木の成長にはあまり貢献していない、いわゆる”役立たず”かもしれない。

一番長く伸びた幹は、遠く上の方で陽の光を浴びようと葉を広げている。
おそらくこの幹は、木の成長にたくさん貢献している。

この幹達は、競争しているのだろうか?
幹1本1本を「木の成長の貢献」という軸で比較したら、たしかに「優劣」は事実としてありそうではある。
‥けれどどうも、競争しているふうには見えなかった。

1歩離れて、この木ひとつで生命体だとしたら、
幹の1つ1つは、カラダの一部とも言えるかもしれない。

ヒトの指は5本ある。でも、本当に必要な指ってせいぜい親指と人差し指と中指の3本だけで事足りるかもしれない。
この短い幹は小指。あんまり使わないけど、ピアノを弾くときはちょっと必要になるかもしれない。全く使わないとしても、指をわざわざ切り落とそうとは思わないだろう。そこに役に立つ、立たないという概念はこの幹達にはきっとない。

どうもそんな感じのようだと受け取った。

まっすぐに伸びる白樺の木に惹かれた。

近づいてみると、その木には「倒される予定」という印のピンクの紐が巻かれていた。

その木に寄り添ってみると、根が深々と下まで伸びているのが伝わってきた。
上を見上げると、その生きた歴史が伝わってくるかのような、まっすぐに伸びた凛とした姿があった。

「もうすぐ、倒されてしまうんだね」

何気なく話しかけてみた。(心の中で、ですよ笑)

「倒すのは、周りの木のためなんだって。そうすると、新しい生命が生まれるんだって。でも、こんなに頑張って上まで伸びたのに、それで自分が倒されるのって、悲しくない?」

私は白樺に寄りかかって、なでてみた。ガサガサしていて、手が汚れた。
しばらく何もせず、身を預けてみた。

『切り株になっても、根がつながっているから、悲しくないよ』

「‥うん」

ふいの返事に驚いた。

木は根をはって動けない。常に大地と一体化している。
生命がどこまででひとつで、自分はどこまでで、とか、どうでもいいのかもしれない。
それは普通に考えれば木に脳ミソなんてないので、自我もないし考えることをしないのだろうけど、どうしてかわからないけど、「森の中のたくさんの生命と共にいる」という、”おおきな居場所”としてそこに在るような気がしてならなかった。

彼らにとって森の生命はすべて仲間であり、己の生命が大きな生命に所属している感覚をきっと持っているのだろう。

この感覚をヒトが持つのは、どうにも難しいことなのだろうか。

こんなことを考えていると、アドラーの提唱する”共同体感覚”が何度も頭をよぎる。

他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。

アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけでなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。

岸見 一郎,古賀 史健. 嫌われる勇気 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.2247-2250). Kindle 版.

大きな共同体に所属している意識ができていると、小さな共同体でいざこざしたり所属感が持てなくても、外に逃げたり、もっと広い視野で考えられるということだと思う。ある意味この地球、宇宙すべてが居場所になるということ。

頭では分かるような気もするけど、「そんなことできるかっ!」とこの本を読んだときには思った。
小さな共同体で所属感を感じられないときは強烈な寂しさを感じてしまうし、所属感があっても十分でないときは、何か満たされない感じがしてしまうから。

けれど、大きく広い森の中、1本の木に寄り添ってみて、自らも木のように大地とつながるようなイメージを持ってみると、少しだけ大きな共同体の鼓動を感じることができたように思う。(少しだけ、ね)

大きな共同体の声を聴くトレーニング法?

「自然というのは、ただ在るだけで、すごくエネルギーがあるよね」

そんなようなことは会話の中でしていたり、自分のイメージの中にはあった。今回のリトリートで、初めてそれを少しだけ『実感』できたように思う。

森の中に入って深呼吸したり、散歩したりすることはあっても、
木に想いを馳せて、なんなら自分も木になってみようなんてことは初めてだったので。笑

※補足:木に寄り添うことはプログラムの中でやりましたが、木と対話したり自分が木になるイメージというのは、自分がフリータイムの中で勝手にやったことです。とはいえ、このプラグラムがないと対話などしなかったと思います。

アドラー自身も「到達できない理想」と認めるほどの本当の意味で理解するのは難しい大きな共同体感覚。もしかするとこれはトレーニングの1回目であり、何度も修行が必要なのかもしれない。

そして、アドラーの考えからいくと、自然から恩恵を享受するだけでなく「貢献感」を持つ必要がある。これは対人間に限らないのかも。

他者がわたしになにをしてくれるかではなく、わたしが他者になにをできるかを考え、実践していきたいのです。その貢献感さえ持てれば、目の前の現実はまったく違った色彩を帯びてくるでしょう。

岸見 一郎,古賀 史健. 嫌われる勇気 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.3066-3068). Kindle 版.

主催者のしょうこさんは、林業を学び、森に感謝をするように貢献している。
もしかすると、そういった活動を通すことで、より大きな共同体の声を聴く一歩をまた踏み出せるのかもしれない。

さて、ここまで長々かいてきましたが、森の中で私達がみたものは在るものに対する「解釈」であり「投影」であるのだろうと思う。

木が喋るとか、こう思っているなんてものは一切なくて、
森をみているようで、森を通して自分をみている。

それなら森じゃなくても、どこでもなんでもいいじゃないかという事になってしまうけれど、ある意味では万物で出来ることだとは思う。

ただ、森の佇まいが”そう”でなければ、こういう答えには至らないわけで、森の在り方だからこそのこの学びなんだろうなと思う。

とてもいい体験をさせていただきました。非常に感覚的なものでしたが、大きな共同体感覚を掴む、きっかけのひとつになるかもしれません

コーチが積極的に対話をしようと関わらなくても、場を整えてもらい、声をきく準備さえできれば、気づきがこんなにも多いのだととても驚きました。

森に入る前にそれぞれテーマや意図を決めて発表しあいました。私はこのようなテーマで臨んだためこんな答えが返ってきましたが、参加者のみなさんそれぞれ全く異なる体験をされたようでした。面白いですね!

ありがとうございました!Tomaruさんのリトリートコーチング、未体験の方にはぜひ一度体感していただきたいです!🌲🌲

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※ちなみに私、みなかみでゲストハウスをしていますのでお越しの際は全力でコーディネートします\(^^)/笑

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