私達が知らないAustraliaへ渡った和歌山県の人達の話
5年ほど前に、長期休みが出来たので海外旅行をしようと調べてたら、オーストラリアでこんな写真をみつけた。
実はこの写真は、この後に私が実際行ったときの写真。
こんな写真をネットで見つけて、完全に直感で
ここに行く!! と即決した。とてもとても綺麗な 20kmにもなる、遠浅のビーチは"Cable Beach"。
このトップの写真 美しい月が海の水面に映る
Staircase to the Moon 🌙 月への階段
という現象も、この町で起こる現象。南半球が冬の半年の間、満月のあと3日間だけ見られる貴重な自然現象。
偶然発見して、完全に観光目的で決めた旅だったが、自分との不思議な繋がりに気がついたのは後の話だった。
Broome ブルーム 小さなちいさな真珠の街
こんな素晴らしい場合はオーストラリアの北西の端っこ。インド洋に面した小さな町 Broome ”ブルーム”
当時、私は仕事でオーストラリア代理店を担当をしていたので、現地のローカルスタッフに
「ブルームに行くよ!」と話したら「ラクダに乗れるのは他でもあるけど、なんとも奥地にいくんだねぇ。オーストラリア人もなかなか行かないよ」と言われた。
実際、アクセス方法を模索しても
1. シンガポールから移動
2. インドネシアから移動
3.オーストラリア経由でも
最低2回乗り換え必須で、時間もコストも変わらない。
田舎の空港のようで便数も少ない。
計画は練りに練ったはずなのに、思わぬ乗り換えのトリックにハマり、2本目の乗り継ぎ便に乗れず…
あらゆる知恵と非常時に恐ろしいほどアグレッシブになる私のコミュニケーション力を駆使し、Broomeに着いたのは出発した翌日の夕暮れ時。
海がエメラルドグリーンだよーー!!!
この飛行機の窓ガラスから、やっと見えたビーチの景色をみて、友達と歓喜したことは一生忘れない。
現地ではゲストハウスに泊まる予定だったので
お部屋を貸してくれるオーナーのIngyさんに
これてよかった~って話したものだ。
日本ではあまり知られてないブルームへ移民となった和歌山県民たちの過去
ブルームに行くと決めてから知ったが、こーんな遠い街に明治時代、祖母の出身地である和歌山県の東牟婁郡や西牟婁郡、太地町など沢山の方々が真珠産業を行うために移住したという歴史だ。
明治維新後から日本はハワイ、ブラジル等へ
事実上、日本の増えすぎた国民を減らすために移民政策を推進していた。 表向きは"グローバリズム促進!"みたいなキャッチだったようだが。
私の曾祖父母も和歌山県東牟婁郡から、北海道に開拓に入った移民。曾祖父母はブルームに渡った人達とは少し下の世代になるが近い年代の人達と思われる。
明治時代は、ハワイやブラジルへの日本人移民もそうだし、事情は様々だが沢山の日本人は
『土地をあげるから』等と"裕福な暮らしができますよ"という呼び水に誘われて住む場所を変えた。
私の曾祖父母も北海道に幼かった祖母を連れて来たものの、そこは果てしない森が広がるだけの場所で、木を切って木の根を抜いて…の繰り返し。
住む家を作るところから始まり騙された感がハンパなかったと聞いた。ブラジル移民の人も似たような話を聞くし、移民の皆さんは、こんなはずじゃなかった、でも簡単には帰れない…という人が多かったのだろう。
この海の向こう側。日本に帰りたかった…
こんな綺麗な海なのに…
このオーストラリアブルームに移住した人達も、真珠産業に携われば報酬が多く出ると聞いていたそうだ。
実際はブルームはインドネシアにも近く、夏には巨大サイクロンが発生し、沢山の方々が命を落としたり…
潜水病でも亡くなってしまう方が多かったそうだ。
第二次世界大戦時下においては、アメリカやブラジルでも移民政策で現地に駐在していた役人は日本に帰還したものの、移民は現地に置き去り。
残された移民は強制収容されてしまったりと…とにかく苦難の連続。
移民になる、出稼ぎをする。
リスクをとって豊かな人生を願って移住する。
しかし、稼いだお金で日本に帰れた人は、ほんの一握り。。
第二次世界大戦時代が終わっても、心無い一時の気の過ちかもしれないが、このオーストラリア・ブルームの
日本人墓地の墓石は多く破壊された歴史がある。
私が訪れた時は綺麗に残っているお墓は少なくて、どこかしら朽ちたり、ひび割れたり、欠けていた。
日本に帰りたかった
その想いから、墓石はすべて日本を向いていた
墓石の裏には出身地の住所が刻まれてました。
東牟婁郡 西牟婁郡の住所がかなり多くあり、私の親戚もここで眠ってるやもしれないと思った。。
和歌山県の人達は好奇心旺盛で挑戦者が多い
私もそんな血を引いてる。
私は日本から沢山、お線香を持って行ってた。
できる限り、多くのお墓にお線香をお供えした。
私は皆さんの代わりの分まで強く逞しく生きます
そして必ず、那智勝浦町へ訪れます
と手を合わせ約束しました。
彼らの想いを何年かけても持っていく。
ここまでがどんなに遠く、故郷とは違う土地か?
どうしようもない困難にぶち当たり、どんな想いで生きたか? 帰りたかったという願い、彼らの移民の歴史を少しでも多くの人に広めたいと思った。
私達はまた移民を選ぶことになるかもしれない
日本の危機
現代のオーストラリアは移民受入れで、人工減少や労働者不足など様々な問題を解決してきたが、コロナ前に受入れレベルがかなり厳しくなった。
だが、私のオーストラリア旅で出会った人達はオーストラリア出身の人より、移民の方が多かった。アフリカからの移民の方や、泊まったゲストハウスのオーナーで社会派の写真家 Ingetje TadrosさんもHolland (現Netherlands )オランダの出身。
現代の日本も給与は上がらず、人口は減少の一途。
日本も移民を受け入れつつ有るが、日本人の生真面目で保守的性格から、オープンマインドな外国人との価値観の違いで問題が起きたりすることは少なくない。
私ですら、外国人の同僚や友人と接すると価値観のいろんな違いに気がつけた。
これから、上がらない給与や日本ならではのマナーや上下関係など、面倒なものにしびれを切らして
移民となり海外で働く人も増えるのかもしれない。
給与も大切だが、日本人が一眼となって
皆のために協力して日本を建て直そうという意識がないと、日本経済の現実打破はかなり難しいだろう。
明治時代、海外に沢山の移民を送った日本。
帰りたくても帰れなかった人達。
そんな方達を思うと、自分の利益だけを追ったり
他人を批判してる昨今の傾向は悲しいものだろう。
お互いを潰し合うだけで、改善はない。
沈黙こそが平和への道 そうではないと私は思う。
それならば
どうしたらより良い社会になるのか?
自分がお金も地位もなくても、それがある人に呼び掛けたりはまだ可能だし、自分の周りの人に優しくすることも第一歩だ。
どんな人が日本の舵取りをするのか?選ぶのも手段のひとつ。例え、議員が頼りなく思えても意味がないことはない。新しい人を擁立するのも手段だ。
今ある命で、どんだけ精一杯やれることをやるか
それが大切だと感じる。
イーロンマスクさんにまで
"日本は消滅する"と言われてしまって、そう思うよね…と思った自分だが…
そうならないよう、移民で来てくださった人には優しく
そして国民同志もけなし合うのではなく、伸ばし合う社会へ。
情報も世界の情報を調べ、多角的な視野で物事を見なければならない。
小難しいことではない、万里の道も一歩から。
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