ランジェリー
休日、私は地下のスターバックスで、アイスのスターバックスラテを飲んでいた。
そこで、唐突に死の恐怖に襲われた。
その時、私はairpodsでビルボードチャートを聴きながら、よくありがちな自己啓発本を読んでいた。「残された人生をどのように生きるか」みたいな話が長々と書かれていて、なんだかどうでも良くなって、ふと周りを見た瞬間、その恐怖がやって来た。
残された人生で何をすべきか?
でもいつか死んでしまえば、私の身体だけでなくこの自意識も、跡形もなくなる。
いまやみくもに働いたり真面目に金を稼いだり生活のために消費したり、娯楽に興じたり自己育成とかいって勉強したりしていても、どっちにしても、いつか人間は死ぬ。
子孫を残す、ということは、せめて自分の遺伝子を後世に残すことができる唯一の方法だが、それだってこの虚無のサイクルの中に新たな生命体を産み落とすだけではないか。
「この人もあの人も私も、みんなそのうち死ぬ」
その絶望への一途を日々辿っているのに、何故人々はこんなところで平然と、必死にツイッターをしたり、真顔で資格の勉強をしたり、のんきにラテを飲んだり、自己育成本なんかを読んだりしているのだろう?
ラテを啜りながら私は恐怖感と戦う。
麻酔を打って麻痺したい。それか、極めて鈍感になる方法はないものか?そうすれば、何も考えず、何かをして生きていられるだろう。
絶望感に苛まれながら早々にスタバを出た。
途端にうだるような暑さが全身を包む。
夏の残滓の中で、私は自分があまりにも疲れているに過ぎない、という可能性について考えた。
そう、疲れているだけだ、こんなのは。
唐突に世界の真理に気付いてしまったわけではなくて、この殺人的な暑さの中で、ちょっと精神も身体も参ってしまっているだけだ。
だからきっと、食べて、寝て、実家にでも帰って、時が経てば、いつのまにかまた私は好きな音楽をひたすら聴いて、流行っている乙女ゲームなんかを気まぐれにインストールして、友達と甘いものを食べて仕事や恋愛の愚痴を言って、旅行をしたりできるようになるのだろう。ならないと困る。
いま私は音楽も気持ちよく聴けず、以前していたゲームなどに興味も沸かず、俗世的な愚痴も甘いスイーツもアルコールもうんざり、な気分だ。
私を取り巻くそれらに対するどうでも良さに、仄暗い恐怖感を覚えながら、商店街をだらだらと歩いていった。皆マスクをして歩いていた。私はもう慣れてしまったその光景をボンヤリと見つめた。
ふと、新しくできたのであろうランジェリーショップが目に入った。マネキンは、黒のホルターネックのブラジャーや、白の総レースのショーツを付けていた。かなりセクシーな、攻めたデザインだ。だが、それにしては派手派手しい店ではなく、むしろナチュラルでリラクシーな雰囲気の店だった。私はだらだらと入店した。
繊細なレースが施された、セクシーなデザインのものが沢山あった。これを付けるような世界線で生きているひともいるのだ、ということを感慨深く思った。世界は広いな、大きいな、と…海ならぬ。
すると、「ご来店ありがとうございます、このブランドご存知ですか?イタリアのインポートブランドなんですよ〜」と、ブロンドのような色のロングヘアをしたイケてる店員さんが話しかけてきた。リカちゃん人形みたいな彼女は、透けた白のシアーシャツを着ていて、中のブラジャーは透けていた。ファッションなのは分かっているし同性だけれど、ガン見はやめておいた。
買うものは特に決まっていないことを伝えると、彼女は、あれやこれやと、私が見ている商品ひとつひとつに対して説明を施してくれた。
──これは竹が原料で、柔らかくて肌触りもよくてナイトウェアにもぴったりなんです!日本のブランドは、ナイトブラっていうと育乳、ってかんじなんですけど、海外のはリラックスに特化していて、でもありのままの形をより綺麗に見せてくれるんです。あ、これはリネンなので、ガシガシ洗っても全然大丈夫ですよ〜!あ!お客様、これめっちゃ似合われそう〜!着てみませんか。
このご時世に、明るくて丁寧な接客だなあと、感心しながら私は相槌を打っていた。
お姉さんに勧められるがまま、私はナイトウェア用のランジェリーを試着することにした。
原料が竹のもの、リネンのもの、コットンのもの、シルクのもの…リカちゃん人形さながらのお姉さんの着せ替え人形になっている状況に、若干の違和感がありながらも、次々と勧められるがままに試着してみた。あれ、なぜこんなことに…。私はブラジャーのファッションショーさながらに着替えた。なにしろ、お姉さんは褒め上手だった。
──え〜っ可愛すぎる!やっぱりこれ、お客様に似合う…!雰囲気的に、この色が似合うと思ったんです。デザインもサイズもぴったりで、引き立ちますね〜。こんな格好でお泊り行った日には、も〜〜〜絶対ヤバイですよ。危険すぎちゃう!気を付けてくださいね!
ずっとこの調子だ。少々高すぎるテンションだが、とにかく次から次へとベタ褒めなので、私も着せ替えを楽しんでいた。いつも付けているような、盛って引き締めるような日本ブランドのブラジャーとは違って、付け心地がとても良くて、締め付け感が無いので楽だった。そしてお姉さんが選んでくれたデザインは、実際いちいち可愛かった。特に、白いレース地に、ゴールドの刺繍が施されたナイトブラとショーツのセットはとても好みだった。ワイヤーもパッドも入っていないが、形を綺麗に見せてくれるようなデザインでとても気に入ったことを、お姉さんに伝えた。すると彼女はぱっと笑顔になって、「ですよね!実はこれ、いま私が付けているのとお揃いなんです〜!だから選んじゃいました」と言い、シアーシャツを躊躇いもなくめくり、私にブラジャーを見せた。なので私はそれをガン見した。確かにお揃いだったし、なんだかおかしくて私は笑ってしまった。「じゃあ、これ買います」
結局、そのナイト用上下セットと、ガシガシ洗っても大丈夫なリネンのキャミソールをひとつ、買うことにした。
お姉さんは、買うあても無くぼんやりと見ていただけの私が、彼女とお揃いのランジェリーを即決するに至ったのが、心底嬉しいようだった。
「お泊りでどうなっちゃったか、教えてくださいね!」と、終始明るく笑う彼女に見送られた。私はありがとうございます、また来ます、と頭を下げながら、お泊りか、と思った。
お姉さんのあのベタ褒めはセールストークに違いないけれど、もし本当にお泊りであの人に見せたら、どんな反応をするだろう。反応が見たいな。見せたいな。ああ、でもそんな機会は、もう二度と来ないんだった。
私はしんどい暑さの中また歩き出し、それでいいのだ、と自分に言い聞かせた。今日帰って、早速このランジェリーを着て眠れば、きっとかなり快適だ。だってあんなに可愛くて、あんなに付け心地が良かったから。
でも本当は、これを買うに至ったのはお姉さんのセールストークのお陰だけじゃなかった。
お姉さんには言えないけれど、このランジェリーを見た瞬間、これはまさしく死の対極に在るものだ、という気がしたのだ。
この繊細で薄っぺらいレース。この上なく防御力のない装備。それなのに、私を鬱屈とさせ、敏感にさせる、その巨大な恐怖から、私の身を守ってくれると感じたのだ。
これを付けていれば、私はまだ正気で生きていられるような気がしたのだ。
ありがとう、お姉さん、また買いに行きます。