ワクワクリベンジ読書のすすめ~『禅と日本文化』鈴木大拙著~
久々の「岩波新書」。『世界のための日本のこころ』(世界のための日本のこころセンター著;かまくら春秋社)で案内されていたもので勢いに任せて読み始めたが、やはり難しかった。
読了までに相当な時間を要してしまった。
「禅が日本人の性格や日本文化にどのような影響を及ぼしているか」という考察が、この書籍のテーマである。「美術」「武士」「剣道」「儒教」「茶道」「俳句」の視点から深く切り込んでいる。
共通するのは「無」である。「無心」「無我」「無念」「無想」そして「無意識」。つまり、自身の存在を感じさせない境地に至るということが、禅をして日本人の精神形成に影響を与えるとともに、日本文化のひとつの基礎をなしていると考える。
また、心理的側面からみた時に、西洋人の心理は秩序的、論理的である。一方、東洋人の場合は「直観的」「直覚的」の中に心理を見いだす。「悟り」といえばわかりやすいだろうか。その意義を打ち立てたのが禅であり、「この直覚的知識が哲学のみならず他のいっさいの文化活動の基礎だという観念こそは、禅宗が日本人の芸術鑑賞の涵養に寄与してきたところのものである」としている。
特に悟りの体験は知的分析を超えた神秘的な特有な技術が必要となる。言い換えれば、「神秘感のあるところ、どこにでも禅の心がある」ということになる。
その「禅の心」を俳句という切り口から考察してみる。
古池や 蛙飛び込む 水の音
松尾芭蕉の句である。
一般に多く評論されているのは、「静寂の境地」としてこの句をみるという点である。静寂が蛙の飛び込む音によって妨げられることで、余計に環境全体の静寂を高める、という見方である。
それを著書に習って、「無意識」という視点から考えてみると、「古池」は古さをあらわす「時間のない時間」の象徴であり、そこに蛙の飛び込む「音」が神秘性を高める。
つまり、「静寂」「閑寂」というよりも、時空を超えた無意識の中における音の神秘性、そこにこの句の評価があるように考えられる。とってつけたような屁理屈で恐縮だが、同著の流れから考えるとそんな見立てもできるように思った。
改めていうまでもないが、「禅」は日本人の精神文化に多大な影響を与えている。
知識の乏しい自分でも、そこだけは理解できた。