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ポケモンのエチカ〜國分功一郎『中動態の世界』を読む〜

「ポケモン」の進化論

 小学生高学年ごろだったか、ポケモンにハマった。当時の最先端は、DS Liteでダイヤモンド・パールをやること。「ダイパ」は、当時の小学生のステータスであり、ポケモンバトルと交換は、高度な社交のツールだった。

 少し前に、ポケモンの最新作を買った。スカーレット・バイオレットは、「ダイパ」で時が止まっていたぼくからすると、あまりにも完成度が高すぎる。なにせ街や平原、山々の立体感がすごい。縦横無尽に駆け巡ることができるし、ポケモンに跨がれば空を滑空することだってできる。

 おまけに野生のポケモンときたら、ヤツらは群れでそこらじゅうに生息してるんだ。平原を歩けば、そこかしこに群生するポケモンたちに遭遇する。ガーディの軍勢を引き連れるウェンディを見た時は、なるほどヤツらはこうやって生息していたのかと、つくづく思わされた。

 ところがどっこい、なんだか虚しさを感じてしまうのである。捕まえたいポケモンがいる時は近づけばいいし、次の街へ急ぎたい時には、いくらでも群れるポケモンたちを避ければいい。都市空間の圧倒的なリアリティは、格段にゲーム内に「わたし」を没入させてくれる。

 ――それなのに、どういうわけか虚しい。

 ポケモンたちが進化しゆくように、ポケモンの「世界」もまた進化している。世界の解像度は高くなり、そこに住まうポケモンたちや人々もまた、より豊かな暮らしを獲得したように思える。だが、ポッチャマが進化を重ねゆくことでその愛嬌を失うように、ディグダやコイルが進化によって「単独性」を失ったように、ポケモンの「世界」もまた、進化によってなにかを失ったかのように見えてならない。

まぼろしの文法、中動態


 どうやらこの「喪失感」こそ、國分功一郎が『中動態の世界』で描こうとしたものらしい。その内実を早々に解き明かしたいのだが、その前に、「中動態」ということばが指し示すものを示さなければならない。しかしそれは、国分も述べるように、簡単に成し得ることではない。そしてその理由は、現在ぼくらがあたりまえに使っている「文法」にある。

 われわれは、英語であれ日本語であれ、動詞を能動態と受動態に二分する語法に慣れ親しんでしまっている。それはもはや普段意識することも、意識されることもないほどに浸透しているが、外国語に触れる時など、ときたま顔を見せる「常識」である。

 ・わたしはペンを持つ。
 ・わたしはかれにチョコレートを渡される。

 前者が能動態であり、後者が受動態であることを、おそらく誰もが認めるだろう。簡単に言ってしまえば、「する」という形式であれば能動態であり、「される」という形式をとれば、受動態と言い表される。
 そのため、後者の一文は下記のように言い換えると、能動態の形式をとるようになる。

 ・かれはわたしにチョコレートを渡す。

 このような「する/される」の二分法と、その間を行き来するようなパラフレーズに、ぼくたちはあまりにも親しみ過ぎているようだ。だが、あたりまえのように接してきたこの二分法は、存外にももろいことに気づかされてしまう。ひとつの例から考えてみよう。それはまさに、ごくありふれた光景を形容する表現に見出される。

 ・わたしは恋に落ちる。

 なんだ、ごくありふれた光景じゃないか。恋を「する」のはわたしなんだから、能動態に決まっている。受動態ならば、「わたしは恋に落とされる」じゃないか、と。

 だが、もう少し考えてみれば、それは単純に「する」とか「される」に還元できないことに気づくはずだ。なぜなら、「恋に落ちる」ということは、「わたし」の意志の範疇を越えているからだ。不思議なもので、「恋」は意図的に落ちるというよりも、「落とされる」ものである。突然の一目惚れであっても、徐々に関係が親密になっていく過程でも、みずからの意志を超えて、「落とされる」。まったく単純に「する」ものだと思っていた恋という行為は、ここに「される」行為となってしまう。とはいえ、それを単純に受動態とも言い切れない。恋をしているのは、ほかでもない「わたし」だからだ。

 國分功一郎がスリリングにも描き出した「中動態の世界」は、「する」と「される」に支配されてしまったぼくたちの思考様式を根底から揺さぶってくる。そこは、かつてインド=ヨーロッパ語に存在した〈中動態〉という文法によって描き出される「世界」である。

 では、かつて存在した〈中動態〉とはなにか。それはまるで、能動態と受動態の「中間」に存在するかのような印象を、その名称から受けてしまう。だが、そうではない。簡潔に言ってしまえば、それは〈能動態〉と対立する「態」であった。ただしここで使われる〈能動態〉は、ぼくたちが慣れ親しんだ能動態とはちょっと違うけれども。

中動態が能動態との対立においてその意味を確定していたのならば、まったく同じように、能動態もまた中動態との対立においてその意味を確定していたはずである。だとしたら、中動態と対立していたときの能動態を、現在のパースペクティブにおける能動態と同一視してはならないことになる。中動態を定義するためには、中動態と対立していた能動態も定義し直さなければならないはずだ。

国分『中動態の世界』82-83頁。

 ここに国分は、言語学者バンヴェニストの定義を借りるかたちで、〈中動態〉とその対概念にあたる〈能動態〉の定義を示す。

能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある。

国分『中動態の世界』88頁。

 つまり、「する」か「される」かではなく、主語が過程の「外」にあるか「内」にあるかが判断基準となる。どういうことか。日本語に翻訳してしまうとその区分の豊穣さが失われてしまうのだが、国分が挙げる例をいくつか紹介しよう。

 ・能動態:「曲げる」、「与える」
 ・中動態:「欲する」、「成長する」

 スプーンを曲げることは、主語の外にあるスプーンに変化が与えられる過程を指す。同様に、誰かに何かを与える行為は、他者に、そして他者との関係という「外部」に影響を与える。つまり、これらは〈能動態〉である。
 一方で、わたしがなにかを「欲する」ことは、その対象に手を伸ばさない範囲においては、わたしはその過程の「内部」にいる。同様に、「成長する」こともまた主体自身の「内部」で完結する。「恋に落ちる」こともまた、そこからなんらかの行動に出ない限り、〈中動態〉だろう。

 〈中動態〉という文法に触れるとき、ぼくたちが自明と考えていた環境が、少し違って見えてくるかもしれない、そんな風に思えてくる。

言語は指定を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。すなわち、言語は思考に素地を与える、思考の可能性の条件である。

国分、『中動態の世界』122頁。

スピノザのコスモロジー

 〈中動態〉の世界には、もしかすると「主体」がいないかもしれない。ここでいう主体とは、ぼくたちが普段何気なく使う意味での、である。

 「わたし」は日々意志を持って行為を行い、ものごとを選択する。ときにそれには、責任も伴う――そのような意味での、「わたし」や「かれ」、「かのじょ」を、ぼくたちはあたりまえのように想定する。カツアゲをされている時、渋々小銭を差し出す人がいたなら、ソイツは自ら差し出した「能動的」な主体だし、その責任はソイツにあることになる。

 だが、〈中動態〉の「わたし」は、少し様相が変わってくる。カツアゲに遭遇してお金を渡す行為は、わたしの「意志」とは言い難いだろう。「恋に落ちる」ことは、わたしの「意志」のように見えて、実はわたしの「意志」ではない。このことを国分は、スピノザの「変状するafficitur」という中動態の動詞を用いながら、以下のように論じる。

たしかにわれわれは外部の原因から刺激を受ける。しかし、この外部の原因がそれだけでわれわれを決定するのではない。この外部の原因はわれわれのなかで、afficiturという中動態の意味を持った動詞表現によって指し示される自閉的・内向的な変状の過程を開始するのである。

国分『中動態の世界』251頁。

 われわれは、(受動態と対立する意味での)能動態のように、自らの意志で行為し続けているわけではない。人間関係や環境に左右されながらも、その所与の環境の中でみずからがなし得ることやなしたいと思う行為を行う。恋に落ちるのは自らの意志によるのではなく、その相手のあらゆる魅力のおかげである。カツアゲに小銭を渡してしまうのは、自らの独断で選んだ結果ではなく、カツアゲに遭遇した環境が導いた結果である。

スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば、自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合に変状するのか?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。

国分『中動態の世界』262頁。

 実はスピノザが描き出したこの世界は、日本語圏には馴染みが深いかもしれない。それは、「自ら」の世界である。このことばを「みずから」と読んでしまうと、それは限りなく「する/される」の世界に近づいて見える。だが同時に、このことばは「おのずから」とも読まれる(竹内整一『「おのずから」と「みずから』)。「おのずから」環境を咀嚼し、「みずから」の行為を起こすこと――これこそが、過程の「内」にある〈中動態〉の世界なのではないだろうか?

「野生」との遭遇

 どうやらぼくがポケモンの最新作に感じたむず痒い感覚は、それが「ダイパ」に比べて〈中動態〉的ではないことに起因するらしい。

 最新作のポケモンで展開される三次元的空間では、Nintendo Switchの機能が「ななめ」の移動を可能としているだけではなく、街を眺める角度も、自由に選ぶことができてしまう。ましてや、野生のポケモンたちは草原を、洞窟の中を、そして海面にいきいきと生息していることが可視化されてしまっている。

「スカーレット・バイオレット」の世界では、自由自在に走り回ることができる。

 一方で、「ダイヤモンド・パール」の世界を特徴づけるNintendo DSは、十字キーで移動することを前提としている。それは極めて単調な空間である。前に進みたい時には一直線上にしか進めないし、斜め前に行こうと思えば、「よこ」と「たて」を相互に組み合わせて進むよりほかない。また、草原・洞窟・海面を進むとき、野生のポケモンの姿は画面上には現れない。むろん、それはリアリティを欠いているのかもしれない。

「ダイヤモンド・パール」の世界。

 だが、「ダイパ」の物語が型にはめ込まれた単調で一直線な世界観で成り立っているかというと、まったくそんなことはない。「たて」と「よこ」を無限に選び続ける中で突然発生する、あらゆる野生のポケモンとの遭遇。それも、最新作のように可視化された「遭遇」ではなく、抗いようもない出会い――。

私がじっさいにこのゲームについて話をしてみた子どもの何人かは、『ポケモン』に夢中になりだしてからというもの、近所にあるちっぽけな藪や公園の草むらから、ふいに「ポケモン」みたいな変な生き物が飛び出してきそうな気配を感じるようになって困った、と話してくれた。この子どもたちにとっては、ゲーム機の中でおこっていた「多神教的感覚」が、そのまま現実の町の中で働きだしてしまったのである!

中沢新一『ポケモンの神話学』134-135頁。

 このドキドキ感。それはまさに、〈中動態〉の世界がもたらしてくれる胸の高揚である。ピカチュウを追い求め、まさしく縦横無尽に草原を駆けまわってはコラッタに遭遇し続ける――。これこそが、「ダイパ」が与えてくれた胸の高鳴りである。
 「縦横」を超えてナナメにも歩き続け、可視化された群れを見て「遭遇」する野生のポケモンを選ぶことができてしまう「主体」。最新作の世界観は、「意志」が反映されすぎるがゆえに、なんだか虚しい。

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