【感想文】幇間/谷崎潤一郎
『Animal Video あるいは Audio Visual』
AV男優は非常に過酷な商売である。
その根拠を具体的に述べると、まず体調によりオチン ( 中略 ) といった訳でAV男優業は苦労が絶えないのである。これと肩を並べる過酷な商売といえば、本書『幇間』における幇間・太鼓持ちであろう。
そもそも現在、幇間なる職業は果たして存在するのだろうか。
落語研究者・桂米朝氏によると、大阪に幇間は今や一人もおらず、東京の浅草、千住方面に数名現存しているとの事である(※ただこれは米朝氏が存命時分のエピソードの為、現代では絶滅していても不思議ではない)。
そうした希少な商売である幇間、その理由は冒頭で述べた通り「過酷だから」に尽きる。
まず人間関係ひとつ取ってみても、客⇔芸妓の二者だけで成立する親密な間柄を割って、第三者の幇間が登場、一座を盛り上げて成功報酬を頂戴するのだから面倒である。これを今でいうなら「キャバクラに行ったらホステスだけでなく見知らぬご陽気者がいる状態」あるいは「3対3の合コンに参加したら見知らぬアゲポヨな男がいる状態」といったところか。いずれにせよ、男性客は女性に対する興味・目的があるからして基本、幇間は邪魔であり無用の存在であり違和感でしかなく、その上で幇間は場を成立させるためにあらゆる芸を駆使して関係を維持しなくてはならない。左記の説明だとまだ幇間の苦労が分かりづらいかもしれないので、AV男優に例えると、そもそも視聴者の興味・目的は男優ではなく女優のパイオツ ( 以下省略 ) 。
「幇間がいなくても成立する関係」であれば、幇間の存在意義とは何なのか。
その問題提起ともいえる本書『幇間』では幇間・三平の因果な身の上が終始描かれていて、芸妓・梅吉に恋をしたところで最終的にオチをつけて爆笑を提供しなければならなかったりと、まさに落語『愛宕山』『鰻の幇間』『たいこ腹』における一八と同様、終始イジラレっぱなしの負けっぱなし、それでようやく報酬にありつけるかどうか、といった各ステークホルダとの残酷な取引が行われる。これでは誰も後を継がないのも頷ける話であり、本書にはそんな幇間が幇間足り得るための立ち回りが露骨に記されていた。
といったことを考えながら、今回私が一番言いたいのは、オレ達はAV男優の過酷さを重々承知の上でAVを賞玩せねばならぬということである。
以上
▼参考:明治〜大正時代の芸者:
以上