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【感想文】異端者の悲しみ/谷崎潤一郎
『クズの本懐・章三郎の本懐』
本書『異端者の悲しみ』読後の乃公、愚にもつかぬ雑感以下に編み出したり。
▼あらすじ
鬱屈した日々を送る貧乏学生の章三郎が蓄音機ごときにガタガタ吐かしてくる家族にムシャクシャしていると以前借金を踏み倒した鈴木が死んだので友人達と故人を偲びつつもヤケになって幇間太鼓よろしく放蕩三昧してたら今度は妹のお富が死んでしまい俺はなんかもう小説家デビューしたよっていう話。
▼読書感想文
あまり言いたくないが、読んで元気が出た。[感想文・完]
▼余談 ~ 「異端」に関する新潮文庫版解説のご紹介 ~
読後にまず思ったのは、『異端者の悲しみ』という表題にも関わらず章三郎が全く異端ではない、という違和感である。というのも、章三郎の様に他者(特に家族)に対して悲しみと腹立たしさが同時に存在することは多く、また、彼の様な自己愛に満ちたクズ人間は世間にごまんといるからである。著者の青年時代(明治末期)にはこうした考えが異端ということなのか。あるいは、在学中に若くして小説家デビューしたのが「異端な経歴」ということなのか。色々と可能性を考えてみたが私の能力では有力な説に思い至らなかった。ここで、この問題に関して本書巻末の解説(※新潮文庫版『刺青・秘密』所収)において、佐藤春夫氏が次の様に言及している。
偽悪者潤一郎は自らを異端者と名乗っているが、その策にもその人にの中にも一向異端者の面影は乏しいので、寧ろこの中篇には骨肉に対して懐いている彼の暖かい深い情愛の方が説かれずして現れているかの観がある。――中略―― 心情的憂鬱のエゴイズムと外面的不拘束の消極的破綻とを、正直者なる潤一郎は余りに自責するの結果、そうしてこれをもっと深く突込んで考込むことを逃避して、せっかちに朦朧と、しかも彼自身から是認出来ないことの自暴自棄から、思い切って自分に異端者と云う鬼の面をおっ被せて了ったのではないだろうか
上記において、氏の「異端者と云う鬼の面をおっ被せて了った」に関しては、作中における友人達と鈴木を偲ぶくだりの直後の、
章三郎の方でも亦、彼等からそれ以上の交際をして貰おうとは望んでいなかった
から始まり、
不信用を承知の上で付き合って貰いたい。」――――こう云う事に帰着する
のであった。
と締めくくる彼の自己言及的な告白に顕著であり、自身を不道徳、非社交的、利己主義と評価した上で、自身の内にわだかまる <<何か真剣な或る物>> の存在を確信しているものの、その実現において、他者を <<自分に対してそんなに強い影響や感化を及ぼし得るものではない>> とみなして退ける。だが一方で、孤独感から <<幇間的な根性>> が生じて友人達の前で芸人めいた真似をする。つまり、他者を拒絶しながらも道化をもって近づくのだという。また、全編を通して家族からどんな叱責を受けようと彼は本心を露にしない。
といったことを考えながら、「異端」という言葉を用いて章三郎の本心を覆い隠そうとする意図が著者の内にあったと思われ、その意味で佐藤氏の語る「異端者という鬼の面」は言い得ているといえる。
以上