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【感想文】ヴェニスに死す/トーマス・マン
『玉井パイド郎による本書解説』
『ヴェニスに死す』(※以下、本書と表記)は、アシェンバハがタッジオとの出会いを通して彼の性質が「分別」から「放縦」へと至る顛末が描かれており、その原理はプラトンの著作『パイドロス』に依拠されているため、根拠も合わせて以下に説明する。
▼リュシアスとかつてのアシェンバハの類似性:
『パイドロス』では、恋(エロース)という主題を巡ってリュシアスとソクラテスによるそれぞれの主張が繰り広げられるが、前者リュシアスによれば、恋する者よりも恋しない者の優越を説き、恋という欲望からなる放縦に身をやつすのではなく、正気や分別をもって回避すべきであると、あたかも恋をひとつの悪であるかのように批難している。ここでリュシアスとは一流の弁論家であり、その一貫して合理的な主張は分別に基づく性質を持ち、本書のアシェンバハも同様、タッジオに出会う前の厳格で規律のある性質とリュシアスの姿は類似する。ただし、恋におけるリュシアスの分別(節制)は以降、ソクラテスによる放縦(狂気)を軸とした徹底的な反駁(※後述)を受けることになり、本書における「アシェンバハの放縦」とは次のイデア(真実在)に由来する。
▼美のイデアおよびタッジオの「美」について:
アシェンバハの放縦はタッジオの容姿へ捧げたものであり、その「美」について作中では以下、ソクラテスのミュートス(物語・神話)が示す通り、
<<なぜなら、美は、パイドロスよ、美のみが愛するに足るものであると同時にこの目にはっきり見えるものなのだ。よく聴くがいい、美こそはわれわれが感覚的に受入れ、感覚的に堪えることのできるたった一つの、精神的なものの形式なのだ>>新潮文庫,P.197
とタッジオは称えられ、アシェンバハの目には「美のイデア」を想起させる存在として映り、放縦へと導かれていくことになる。では、放縦とは果たして善い事なのか。
▼放縦・狂気の是非について:
ここで再び『パイドロス』に戻ってソクラテスの言説を基に説明するとまず、放縦とは心が激動している状態、つまり狂気であり「神がかり」とも称される。そのため、狂気とは幸いのために神々から授けられるものであり、恋い慕う者もこの狂気を預かっている(=エラステス)。疾病や厄災といった不幸から人々を救う予言や秘儀の霊感、即ち狂気は「善いもの」に由来し、同様に恋も善きものとしての狂気であるといえる。以上を踏まえて以下、本題。
▼魂の不死および転生のミュートス:
神的狂気である恋、その原理は本書ラストシーンに如実である。該当のシーンは以下の通り。
◎該当のシーン(抜粋):
アシェンバハは死の直前に <<少年(=タッジオ)が、腰から手を放しながら遠くのほうを指し示して、希望に溢れた、際限のない世界の中に漂い浮かんでいる気がした。するといつもと同じようにアシェンバハは立ち上がって、少年の後を追おうとした>>P.251 。そしてその数分後に死んだ。
◎恋の原理/アシェンバハの魂:
『パイドロス』におけるソクラテスのミュートス(いわゆる「馬車の比喩」)によると、魂の本質は「翼を持つ善悪二頭の馬、馭者」であるとし、馭者は天空の極みにあるイデアを目指す途上において、悪い馬に邪魔をされたがためにイデアの観照に失敗した魂は天から地上に墜ち、人間の肉体(ソーマ)に宿る。恋とは、タッジオのように美しい人に出会うことでかつてのイデアを想起し、失われた魂の翼の再生を駆り立てるものである。そうしてエロースと愛智に生を捧げた魂に限り、輪廻転生の周期を免除──本来は十回周期(一万年)の転生を三回周期(三千年)で済まされた結果、翼が生じてイデアの世界へ帰っていくという。以上のことから、本書ラストシーンは、
「タッジオが指し示した <<遠くのほう>> とはイデアが結び付き、続いて <<少年の後を追おう>> として死んだアシェンバハ、その肉体から放たれた魂だけがエロースとしての『美のイデア』を目指して天に帰って行った」
と解釈することができる。
▼といったことを考えながら:
『パイドロス』はプラトンの著作の中でもやや難解な部類なので、その代わりとして紹介したい作品を一つ挙げるとすれば『お信』という小説が非常に読みやすく、かつ、パイドロスと同等かそれ以上の事柄が論じられているため、まずは『お信』を読んだほうがよい、絶対に。
以上