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褒めることが怖い? 【褒めることへの不安】

褒めることがいいことなのかわからない

一般的に褒めることとは良いこととされている。

僕もそう思う部分はあるし、褒められる経験を通して、人は大きく行動を変容させていくのも間違いない。

ただ、教員になった僕は、ふと思うことがある。

「僕に褒められるためにこの子たちは動いているのではないか」

少し具体的に話していこう。

僕が担任をしているクラスの子は僕のことがものすごく好きだ。

そして、僕はよく子供たちのことを褒める。

一人につき一日3回は褒めている。

この自信はどこから言われるかと言われると、日々の振る舞いとしか言えないのだが

そんな僕のクラスだからこそ、ふとした時に
「あっこの子たち僕に褒められるためにやってるな」
って思う時がある。

例えば、給食の配膳台を配膳室に取りにいく際に、僕は一時的に教室をあける。

そのため、うちのクラスの子の様子は見れないのだが、僕がクラスに到着する時には、みんな静かに待っている。

ただ他の先生に聞くと、僕が来るまでの間は、ずっと僕が来ないか、廊下で見ている子が何人かいるらしい。

それは僕が来るのが怖くてというよりも、僕が来るのを待っているという感じだ。

僕に褒めて欲しいので、まだ来ないのかな〜と待っている感じだ。

可愛いでしょ笑笑

ただ、この行動から考えるに、僕が担任をしている子の何割かは、僕に褒められたいがために行動していることになる。

いや、褒められたいために一般的にいい行動とされていることをするのはいいことじゃんかと思う人もいるかもしれません。

でも、僕なりにこれがいいことなのかわからないというのが本音だ。

理由①

褒める人の価値観で、その子の行動を方向づけしてしまっていること

褒めるという行為は、その対象となる行為を増やすしていくことを目的としています。

そうなった際に、僕の価値観で子供の行動を誘導していることになります。

その結果、僕の価値観で良いとされている行動に近づいていくわけなんですが、これってものすごい怖いですよね。

全知全能の神でもない一人間の僕の価値基準で動くようになるなんて、もし僕が偏った行動を奨励したらと思うと不安で仕方ありません。

理由②

褒められる人がいなくなった時に無に帰す可能性があること

褒められる人がいなくなった時に、その行動の意図がわからないままだと、意義がわからないために、その行動が無くなってしまう可能性が高い。

また、この場合の子供の行動は自分のための行動ではなくて、僕のための行動になってしまうことも考えられる。

誰かのために何かするのは悪いことではないけど、基準を他人ではなく、自己における人を育てる上では良くないのではと思う。

理由③

子供がいい悪いを判断する機会を奪ってしまっていること。

行動の善悪は、常に誰かが教えてくれるものではない。

これから自分で善悪を判断して行動していくためにも、子供なりにその行動の良し悪しを考える機会が必要なのは言うまでもない。

だからこそ、安易に褒めることによって、思考する習慣を身につけることを阻害しているんじゃないかと不安になる。

少なくとも僕は、誰かの言いなりになる子を育てたい訳じゃないから

最後に

以上の理由があって、褒めることに最近抵抗感を覚えている。

しかしながら、人の思考や習慣、行動を何かしらの方向に誘導していくことが教員という仕事には求められている。

あいにく、僕はまだ褒める以外で、彼らの方向を違和感なく変容する手段を持っていない。

そんな僕だからこそ、僕なりにこうした方がいいと思う行動を褒めて方向付けしつつも、どうしてその行動がいいのか、立ち止まって考えられる場を作っていきたいと思う。

たぶんここで大事なことは、シンプルで

褒めるという行為を短いスパンで見るのではなくて、その褒めるという行為を経て身につけたものを長い時間をかけて、その意義をその子なりに落とし込んでいくこと。

その上で、本当にその行為が必要なことなのか、良いことなのか選ぶ経験を積ませることなんだと思う。また選ぶ時の一つ思考材料にすることが大事なんだと思う。

長々と失礼しました。

この投稿が誰かのためになってくれたら幸いです。

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小泉しのぶ(小学校教諭×起業家→教育委員会×起業家 )
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