豚男(ショートショート)
いつ人生のボタンをかけ間違えてしまったのか不明だと言う奴もいるだろう。だが俺は、鮮明に憶えている。自らの意志でボタンを掛け違えたからだ。
あれは2022年度の大学入学共通テスト。科目は国語。大問1の文章IIにこう書かれていた。
次の文章は、人間に食べられた豚肉(あなた)の視点から「食べる」ことについて考察した文章である。と。いきなり俺のことを豚肉、豚野郎呼ばわりしてきたのだ。俺はこの一文に強い拒絶感を抱いた。中高六年間、俺は周りからブタと嘲笑われ、苛められてきたからだ。周りより太っているからブタ。運動がクラスで1番下手だったからブタ。体臭がきついからブタ。ブタ、ブタ、ブタ。何度その単語を浴びせられてきただろうか。
この地獄から抜け出すには良い大学に行って、良い会社に入って見返すしか方法は無いと考え、必死に勉強してきた。勉強だけが俺の命綱だった。なのに先の一文によって、勉強にまで木端微塵に裏切られた。眼前が黒に沈んだ。全部黒くなって見えなくなってしまえば良いと思った。だから答案用紙のマークシートの数字を全て黒で塗り潰してやった。気づいたら数字だけじゃなくてシート全面、黒で塗り潰していた。
黒一色の世界。一瞬だけ心が和らいだ。
そこから世界は暗転し、俺は何者でもない何かになった。人間では無く、ブタですら無い。死ねば済む話だったが、死ぬ勇気も無く。死んだように眠る酔っ払い達の財布を盗んで命を繋いだ。
ある夜、いつも通り繁華街でターゲットとなる酔っ払いを探していた。ビルとビルの間。車一台がなんとか通れる道に、俺と似た何かが転がっていた。猫か犬かと思っていたら、それは老婆だった。何故か頭から血を流して倒れていた。その老婆は俺を認識するや否や、仏様でも見ているかのような目と声で
「助けてください、車に轢かれてしまいました、救急車を呼んでください」
と言ってきた。老婆はそう言っているが近くに車は無かった。可哀想に、ひき逃げされちまったのだろう。俺はすぐに携帯電話を取り出して救急車を呼ぼうとした。がそこで何かが囁いた。
「今更人助けして何になるんだ、老婆をよく見てみろ」
老婆をよくよく見てみると指や首元に高級そうな宝飾品を身につけているではないか。気づいたら、俺は電話のボタンを押す変わりに老婆の身体から金品を奪っていた。
老婆は声なき声で俺に罵声を浴びせていた。だが俺はこの時人生で一番の興奮と幸福感を味わっていた。
そうだ、俺をブタ呼ばわりしてた連中は今ごろ正義ずらして世のため、人のためにと行動しているんだろう。悪魔のくせに。そいつらと今の俺、何が違う。死にかけの老婆の金品を奪ってなにが悪い。どうせ俺が盗まなくとも役人が横取りするだけだ。誰が悪を悪だと決めたか思い出せ。それは正義ずらした悪魔連中だろう。
この出来事をきっかけに俺は更に深海の淵に堕ちた。
もうどう足掻いても浮上できない。
食べることさえ体が拒絶した。
悪臭漂う汚部屋、消えつつある意識の中、俺はあの時の共通テストの問題を思い出していた。
ブタと共に並べられていたのは、宮沢賢治の『よだかの星』だった。よだかは、醜いが故に虐げられていた。しかし、奴、よだかは周囲からどれだけ虐げられようが、本能のまま食べた。食べることができたから、最後の力を振り絞って星になれたんだ。
よだかはスゲエよ。
俺なんてもう食べることさえ出来ないんだ。もしも、また食べることができたなら、俺も星になれるのか。
俺にはそんな力も精神も残ってやいねえ。
それならせめて大の字になって朽ちよう。
大の字で燃やしてくれたらな、いつぞやか京都で見た大文字の送り火のように、俺なんかでもせめてあの世にはいける気がするから。
◇
後日発見された腐乱しきった男の死体。大の字ではなく直立な状態だったそうだ。男には大の字になる気力さえなかったのだ。
この世には落ちたら救い切れない穴がある。
その穴に落ちてしまいそうな奴らを救えよ、人間よ!
終わり
※老婆とのくだりは、「羅生門」を大いに活用させていただいております。
※また、決して共通テストを批判している訳ではないです。むしろ個人的には、食べることに対して考えるきっかけとなる良問だと思っております。