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時間の使い方は心の栄養。誰かのために時間を使う心地よさもある

日々を生きていくうえで、自分の時間は必要だ。ひとりで好きなことをしたり、誰にも邪魔されずにのんびり過ごしたり。少なくとも、私はそういう時間がないと死ぬ。

でも、実はそれと同じぐらい、誰かのために時間を使うことも大切で、そこでしか得られない充足感のようなものがある気がする。

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先日、大学院の友人が論文の発表練習に付き合ってほしいということで、朝から2時間ほどZoomでミーティング。練習を聞き、質問をしたり、感想を伝えたりしていた。

正直、その時間で自分の研究の作業はなに一つ進まない。それなのに、Zoomを閉じたときに、ものすごく何かが満たされるような気持ちになった。

それは、どんなにひとりで集中して「今日はがんばった!」と思えるような作業をしても得られない感覚だった。友達と話せて楽しかったというのとも、なんか違う。

いったい、これは何なんだろう?

そんなことを考えるうちにふと思い当たったのが、自分以外の誰かのために時間を使ったということ。

あのときの感覚は、見知らぬおばあちゃんに道を聞かれて、地図を見ながら一緒に目的地を探したときと似ていた。ほかにも、誰かに贈り物をしたくなって、それを選んでいるときとか。

仕事ともちょっと違って、社会や決まりで与えられた役割とはすこし離れたところで誰かに使う時間。

そういう時間って、なんとなく心が満たされる感じがするというか。自己満足かもしれないけれど、「ちょっといいことできたかな」という気持ちになるし、自分以外の誰かのことを考えられる余白があるという心地よさも感じる。

これは、自分時間ではなかなか得がたいものじゃないだろうか。

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結局、時間の使い方も栄養みたいなもので、バランスが大事なんだろう。

どんなにひとりが好きで、自分だけの時間が大事でも、そればっかりになってしまうと、それはそれで健康的ではなくなるというか。

自分の時間、誰かのために使う時間、きっとそれぞれに質の違う心の栄養があって、どちらも大事なんだと思う。たぶん我慢のしすぎも過剰摂取もよくない。

ときには、ちょっと苦いけど栄養価の高い時間だって必要だろうし、逆に毒にしかならない時間は減らしたほうがいいだろう。

難しいのは、どの時間がどういうものかは人それぞれだろうし、同じ人でも時期やライフステージで変わるかもしれないということ。

自分はどういう時間に何を得ているのかを振り返りながら、いい塩梅を見つけられたらと思う。

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