空想お散歩紀行 自分の死を見ているようで
ペットを飼うということは、その命に責任を持つということだ。
と、言うのは今さら言われるまでもないことだ。
子犬だろうと、子猫だろうと、最初はどんなに小さくて可愛い存在だろうと、最後には必ずお別れの時は来る。
責任を持つということは、必ず来る予定に対して覚悟をするということだ。
それは分かっていたつもりだった。
しかしそれはあくまでペットの場合の話。
今、俺の目の前にある棺。その中に横たわって目を瞑っている顔を見ると、どうしても不思議な感情になってしまう。
それは気味が悪いという感じに近いかもしれないが、そこまで実感があるわけでもない。
何とも表現が難しい。悲しいわけではないが、何か心に穴が空いたようにも感じる。
さっきから同じような感情が行ったり来たりしているのは、きっとそこにある顔が「自分」だからだ。
顔だけではない。身長も体格も見た目は完全に自分と一致。
当たり前だ。クローンなんだから。
自分のクローンを製造、所持することが法律で認められて10年程経つ。
最初は費用も掛かり、一部の人間しか使えなかったクローンも、技術の発達による値段が下がったことで広く利用されるようになってきた。
その流れに乗るように俺も初めてクローンを持ってみた。やたら手続きが面倒だったが、いざ持ってみたら便利な面も多かった。
買い物や掃除などの雑用をやってもらったり、代わりに仕事に行ってもらったこともあった。
最初は自分が行う労働の身代わり程度に考えていたが、時々クローンの方を休ませて自分が家事をやることも増えていった。
しかし、クローンには一つ重大な欠点、いや決まりごとがあった。
それはオリジナルである人間よりも遥かに寿命が短いことだ。あくまで本物の人間ではないという倫理上の規定らしい。
では「動かなくなった」クローンはどうするのかと言うと、燃えるゴミとして出すわけにもいかないので、こうして葬式のようなことをするわけだ。
もちろん本物の人間とは違って、簡素でずっと安い、形式だけの葬式だが。
それでも、自分と同じ体がもう動くことなく横たわっているのを見るというのは変な気分であることはさっき言った通りだ。
このクローンの死を見ることは、ある意味疑似的に自分の死を体験していると解説する学者もいる。
そのため、クローン症候群という、クローンの死でオリジナルの方の精神に不調をきたすという症状が、新しい社会の病として最近急増しているというのをどこかの記事で読んだことがある。
自分がそうなるとは思えないが、そうなってしまった人たちの気持ちも分からないでもない。
何となく、クローンの顔を見た後、目を瞑って手を合わせた。
何を祈ったというのだろうか。こいつは別にあの世だとかに行くわけではないだろうに。
クローンの体はこの後分解処理され、一部はまた別のクローンを作る際の材料としてリサイクルされるらしい。
ただ焼かれたり埋められたりする人間より、死後も役に立っているではないか。
人によっては、その後もクローンの写真を自分の家に飾ったりするらしいが、そこまでいくとさすがに理解はできなかった。自分の顔だぞ?
自分と同じ顔、同じ体のクローンなのに、どういうわけか人はそこに自分とは違う何かを見出そうとするみたいだ。
それは、クローンと言えど自分とは違う一つの個体として認めるという愛情表現か、それとも自分という存在を守るための防衛本能なのか。
それは分からないが、俺はしばらくはクローンを持つ気にはなれそうもない。
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