空想お散歩紀行 ダンジョンマスター
私はダンジョンマスター。
あらゆるダンジョンを攻略、踏破してきた凄腕の冒険者・・・という意味ではない。
私はダンジョンに入る側ではなく、ダンジョンを作る側の者だ。
私の作ったダンジョンは今まで数多の挑戦者の命を喰ってきた。
ここで勘違いしてほしくないのは、私は快楽殺人者ではない。
私の作るダンジョンは確かに簡単に攻略できるものではないが、絶対に攻略できないものでもない。
その試練を乗り越えた時、富か名声か、それとも力か。とにかくダンジョンに踏み込む前とは大きく違った自分になれるのは間違いない。
私が見たいのは、打ち勝つ者の姿だ。例えその心の底にあるのは欲望だろうと、目的を達成した人間というのは神聖なものなのだ。
緻密に計算し仕掛けた罠。攻略させないために設計するが、決してゴールを閉ざしてはならない。その綱渡りのような絶妙なバランスを意識しながら作ったダンジョンを攻略されたという敗北感と、そのダンジョンを攻略したことで一回りも二回りも成長した人間を作り出したという達成感。その二つが私をこの道を歩き続ける理由だ。
最近作ったダンジョンがあるのだが、これが今までに無い怪作となった。
それは、作り自体は極めて単純なものだった。
駆け出しの冒険者でも、時間を掛ければ十分攻略可能で、中で遭難して死ぬなんてことはまず考えられない。
さらに中には財宝をこれでもかと置いておいた。金や銀、宝石などなど。全て売れば一生どころか二生は余裕で暮らせるほどのものだ。
だがここには、他には無い特徴が二つある。
一つは入ってきた入口から出ることはできない仕組みだ。入口から入ったら、もう一つある出口から出るしかない。
そしてもう一つ、ここが肝だが、それは出口にある。
出口の手前には見た感じいかにも崩れそうな橋を用意した。
そして、その橋の前には看板。そこにはこう書いてある。
『ここで手に入れた物は全て捨ててから橋を渡れ』
つまり、せっかく手にした金銀財宝をあきらめ、ここに入ってきた時と同じ状態で無ければ出られないという仕組みだ。
小さな宝石一つでも持ったまま橋を渡れば、待っているのは、ただ死である。
ここで私が見たいのはその者の心だ。本当に大切なものは何か。目が眩み、体が勝手に動くような魅力ある何かが目の前にあったとしても、真実を見極める心を私は見たい。
だが、悲しいかな。この単純なルールのダンジョンを攻略できたものは、いまだに一人としていないのだ。
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