空想お散歩紀行 雨の中のタクシー
静かな夜だった。雨の雫が空気を切る音だけが聞こえてくる、静かで少し冷たい夜だ。
一台のタクシーに客が乗り込んできた。
スーツを着た、若い男だ。
男は後部座席に座ると同時に行き先を運転手に伝えようとするが、上手く言葉が出てこない。
行くべき場所は分かっているのに、そこの場所のことをどう伝えればいいか分からない、そんな感じだ。
困っている様子に気付いたのか、運転手は後ろを振り返ることなく、バックミラー越しに客に話しかけた。
「大丈夫ですよ。あなたの行き先は承知していますから」
そう言うと、タクシーは動き出した。
客は最初は不思議に思ったが、すぐに気にしなくなった。理由は分からなかったが、これでいいと感じたのだ。
街の中をタクシーは走っていく。
通りには家や店が立ち並んでいて、それぞれが明るい光を外に向かってこぼしていた。
雨に濡れた石造りの道が、その光を反射して夜だというのに光の中を走っているかのようだった。
客はその光景をただ眺めていた。
ここの道は初めて通るはずなのに、どこか懐かしい感じがする。かつて歩いたことがあるような、でも思い出すことはできない。
それだけではない。道には何人もの人が歩いていた。誰もが傘をさしていて顔ははっきりとは見えなかったが、誰もがどこかで会ったことがあるような、そんな気配を醸し出していた。
景色も、そこを歩く通行人も、自分の記憶のどこかにあることは分かるのに、はっきりとは思い出せない。だけど、それが不快ではなく、むしろ心地よささえ感じさせていた。
「あなたはとてもいい人のようですね」
運転手がまた、バックミラー越しに話しかけてきた。
「この夜の雨のように、人には知られなくても世界を潤す。道行く人は、夜でも明るい光の中で安心して歩くことができる」
客は運転手の言っていることがよく分からなかったが、悪い気分はしなかった。
「静かに穏やかに、あなたは人を照らし続けた。この道はそんなあなたの生きた証そのものです」
客はその言葉に特に返事を返すことはなかった。ただずっと外の景色を眺めている。
雨がタクシーを叩く音と、ワイパーがガラスを滑る音だけが聞こえてくる。
ふと、運転手が客に問いかける。今まで一番優しい声で。
「どうでした?あなたの旅は?」
客は自然と自分の手に視線を落とした。
先程まで若く張りのあった肌は、今は深い皺が刻まれ、一回り小さくなっているように見えた。
客は、満足そうにただ一言、
「ああ、いい人生だったよ」
雨は振り続ける。まるで全てを包み込むように。その中を一台のタクシーが走り続けていく。一人の人間の目的地に向けて。
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