空想お散歩紀行 画面の中にいる人たちは
人々は何だかんだ言って物語が好きである。それをなるべく手軽に味わいたいと思っている。小説は文字だけだからその場面場面を想像することが必要である。漫画は絵はあるが、音や声を想像する必要がある。
だから、映画やドラマは絵も音も声も、最初から全て与えてくれるので受け取り側としては楽だ。
そして、物語の外に影響が及ぶことが多い。
それが俳優や女優である。
彼らは役を演じるという物語の一部でありながら、人間そのものとして人気を得ることが珍しくない。その人が出演するから、という理由で物語を見る人間はいくらでもいる。
映画やドラマの中で活躍する彼らに今日も多くのファンが様々な想いを抱きながらスクリーンの中の世界へと入り込んでいる。
しかし、かつてとは決定的に違う要素がそこにはあった。
その一枚の境界を経た向こう側で物語を彩っているのは本物の人間ではない。
全て、映像技術とAI技術の粋を集めて作られたAI役者たちだ。
今、ドラマや映画の世界で物語を演じている中に生身の人間はほとんどいない。
かつては当たり前だが、技術が無く、普通に人間が役者として活動していた。
だが、先程も言ったように、役者は役を演じる物語の一部である以前に、一人の人間である。
そして人間とは、どんなに金を持っていようと、どんなに名声を得ていようと、常に利口に安定しているとは限らない。
突然世間に知れ渡る不祥事、法に触れるものから不謹慎なものまで、あらゆることはすぐにネットを介して広まる。
昔はそのような不祥事が起きると、役者としての価値が下がるだけでなく、その人物が出演した作品にまで影響が及んだ。
その結果、いくつもの作品が二度と日の目を見ることができなくなっていった。
物語作品というのは、芸術である同時に商売でもある。
何を起こすか知れない人間は、いつ導火線に火が付くか分からない爆弾のようなものだ。
そんなものを抱える懸念と、技術の発達は偶然か必然か、綺麗に融合することになる。
それがAI俳優だ。既にこの世にいない有名な俳優から、新人まで必要なのはデータであって、生身の体ではない。
AIによる動く俳優は決して不祥事を起こさない。
物語を見る側からすれば、本物の人間とまったく遜色ない動きをしてくれれば、それが本物だろうとAIだろうと実はそれほどこだわりがないのだと近年明らかになった。
どちらにせよ触れることはできないのだから、自分を楽しませてくれるのならば、そこはあまり関係ないのだ。
こうして、本物の人間が画面の中で演技をすることは無くなった。
俳優たちにとってはつらい時代が来たと言う者も少なくない。
しかしこれはまだ序の口に過ぎないかもしれなかった。
今はまだ、現実にいる俳優や女優達のデータをもとに本人そっくりのAI俳優たちが出演しているが、『ゼロから作り出された』AI俳優たちも少しずつ世に出てきているのだ。
漫画やアニメのキャラクターのような非実在のAI俳優たちは、おもしろいことに俳優としての経歴も用意されている。
どこで生まれ、どこで育ち、何が趣味で、休日はどう過ごすのか、などなど。
不祥事どころではない。過去の経歴すら自由自在に作られた存在なのだ。
今はまだ、それほど世間に受け入れられているわけではない。
だが、大切なのは見る側の人間が、いかに自分を簡単に楽しませてくれるかどうかを判断するところにある。
だから、例え本物でなくても、そこにリアリティがあり、自分を夢中にさせてくれるものがあればそれでいいのだ。現実の俳優の経歴だって、それが本当かどうか確かめる人間などほとんどいないのだから。
ここから先、どうなっていくのかは分からない。ただ分かっていることは、人が楽しいものを求めることは決してやめないだろうということだけだ。
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