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空想お散歩紀行 握手会は手の中の物語

今日は数ヵ月に一度の握手会の日。
外はクソ暑いというのに朝から並んでるやつらが何人もいる。私は絶対にやりたくないが、この握手会の主催者である以上、こういうやつらがいてくれないと盛り上がらないのも事実である。
そして開門。入口が開くと同時に熱気と一緒になだれ込んでくる人の群れ。
「はいはい、一列に並んで!ルールが守れないやつは追い出すよ!」
大きな声を出して連中を誘導する。まったく毎回毎回同じことを注意しなきゃならないのは面倒なことこの上ないね。
まあ、でもしょうがないと言えばしょうがないのかもしれない。
何せ今回の握手会に出演するのは、私が選りすぐった虎の子たちばかりだからだ。
開催前からネットでは大盛り上がりだったから、当日の今日のボルテージはさもありなんといったところか。
来場者たちが、それぞれのお目当てを前に、ロープで区切られた待機場所に列を作る。
大人しく待っている姿はまさに躾が行き届いたペットのようだ。
「さて、これから握手会を始めるわけだが、分かってるな?事前に手を消毒し、しっかり拭いておくこと。触れることができるのは一人2分まで。乱暴な行為に出た者はソッコーで退場だ。いいか?」
並んでいる参加者全員が静かにうなずく。今回初めてのやつも、常連のやつも、基本的なマナーはわきまえている。これがマニアというものだ。
「じゃあ開始だ。列の一番前のやつから進め」
8つの列の先頭それぞれが前に出る。そして緊張した面持ちで、自分の目の前の存在に手を伸ばした。
やつらが手にしたのは『本』である。
「今回用意したのは、8冊とも自慢の一品だ。どれも100年近くは経っている。ファンタジーからSF、歴史ものまで、じっくり堪能してくれ。くれぐれも汚すなよ」
機械、ネット、AIにより、仕事からプライベートまで、あらゆる空間から『紙』が消えて久しい。文章の類は全てデジタル化され、人々は小さな端末の中に何十何百という本を入れて持ち歩くことができる。
だがそれでも、電子端末ではなく生の本そのものに憧れを抱く者も少数ながら存在した。
ここは、今や貴重となった紙の本を保管している図書館。街のうら寂れた片隅にある小さな建物だ。地元の人間でも、こんなところに図書館があることを知らない人間の方が遥かに多い。
そんな時代の中でやっている、私の小さな抵抗がこれだ。
普段は保管と保存のために封鎖している図書館を時折開放して、生の本に触れされてやる。私はこれを握手会と名付けた。
参加者はさっきも言った通り、今やマニアの中でもニッチなマニア、本好きの連中。
本の内容はきっとデジタル版で読んでいるはずだ。彼らが求めているのはまさに生の体験。
本の重み、ページをめくる時の手触り、紙やインクの匂い。それらを求めてこの握手会に参加している。
「さあさあ!一人2分だって言ったよ。終わったやつはさっさと交代交代!」
名残惜しそうに本を静かに置き、離れる参加者たち。
次はどんな本で、こいつらを非日常の世界へ連れてってやろうか。

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