空想お散歩紀行 命の価値
月の綺麗な夜だった。しかし、彼にはそんなものは見えていない。
見えているのは、屋上から見える下の景色だけ。
「おやおや、こんな良い夜に飛び降りですかな?」
彼は急に背後から聞こえてきた声に驚き、振り向いた。そこにいたのは小柄な老人だった。
自分を止めようとしているわけではないのは何となく雰囲気で分かった。
「そうです。もう僕は人生にほとほと嫌気が差しました。楽になりたいのです」
「そうですか。でもせっかくなら死ぬ前に楽しい思いをしませんか?」
老人の突然の申し出に彼はほんの少しだけ気を引かれた。
「楽しい思い?」
「そうです」
そう言うと老人はポケットから小さな何かを取り出す。それはカードだった。
「このクレジットカードを差し上げましょう。中のお金は自由に使って結構です。どうです?騙されたと思って。死ぬのはそれからでもいいではありませんか」
何を言っているのだろうか。彼は老人の真意が理解できずにいた。
「何を言っているのか分かりません。僕は騙されませんよ」
「これから死のうとしている人を騙して何になると言うのでしょう。私はあなたが死ぬのを止めたいのではありません」
「では何を?」
「言っているでしょう。死ぬ前にいろいろやっておいてもいいのではないかと提案しているだけですよ。命というものはそれだけ価値のあるものです」
一切変わらない老人のペースにいつの間にか飲まれていた彼は、そのクレジットカードを受け取っていた。
「ちなみに、それはお金を出すこと専用で振り込むことはできません。ああ、それと暗証番号は―――」
次の日、半信半疑で彼は銀行のATMにそのカードを入れた。
そして暗証番号を入力。その暗証番号は自分の誕生日と同じだった。妙な不気味さを覚えたが、その気持ちは次の瞬間消し飛んだ。
「こ、こんなに・・・」
ATMの画面に表示された金額は彼の予想を遥かに上回っていた。
彼は恐る恐る、その口座に入っている金額からはずっとずっと少ない額を引き出した。
そして、そのお金を使わないまま数日を過ごした。
何も起こらない。
それから、引き出したお金を使ってコンビニでペットボトルのジュースだけを買って、また数日が経過した。
何も起こらない。
どうやら老人が言っていたことは本当のようだ。このお金を自分は自由に使ってよいのだ。そう確信した彼は、次の日からこれまでとは180度行動が変わった。
好きな物は何でも買った。好きな場所にはどこにも行った。今日の昼食は何を食べようか迷うくらいの感覚で、次から次へと異性と遊んだ。
そしてついに、口座からお金が無くなる日が来た。しかし、彼には後悔も絶望も無かった。
「このお金を引き出したら終わりか。でも、今日までたくさんの経験ができたおかげで自信がついた。これからは自分の力でお金を稼いで生きていこう」
老人はその日、テレビから流れてきたニュースを眺めていた。
『本日、都内銀行のATMの前で男性が一人倒れているのを職員が発見しました。男性は病院に運ばれましたが死亡が確認され、特に外傷は見られないとのことですが、警察は事件と事故の両面から調査を―――』
「おお、思ったより早くお金を使い切ったみたいですな」
老人は彼に声をかけるように、テレビに向かって話した。
「あの口座には、1年で1000万換算で、あなたの残りの寿命分の残高があったはず。
使い切ったということは、私が言った通り、死ぬ前に良い思いをたくさんしたということでしょう。いやはや満足して死んでいったのなら、私も死神冥利につきますな」
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