弱さを眺める(2-1)
第1章では、「種としての人間」を駆け足で追うことで、我々がどのように強さを獲得してきたのか。人間であるというだけで、どれほどのポテンシャルを手にしているか。について共有を試みました。
では「具体的にどう強さを獲得していくか?」を語る前に、真逆の概念である「弱さ」を考えてみたいのです。強さの磨き方なのになぜ弱さにフォーカスするのか? その理由を述べます。
ひとつ目は弱さと強さは補完し合う関係だからです。パーに開いた手を白い紙に置いて、周りを鉛筆でなぞってみてください。手を描いたわけじゃないのに紙には「手」が描かれていますよね。
「弱さ」を描いてみると「強さ」が浮かび上がってくる。「強くなる」を「自分の望む方向に変化する」と考えると、「ああはなりたくない」を集めてみると「ああなりたい」がクリアになっていきます。
ふたつ目は、強さへのモチベーションは弱さから生まれるからです。
・高校時代2軍止まり、1軍に上がれなかった青年は、史上最高のプレイヤーとなりバスケットボールの神様と呼ばれるようになりました(マイケル・ジョーダン)。
・20代後半で聴覚を失い、音が聞こえなくなった音楽家は「心の耳で聞けばいい」と歴史に残る大作曲家となり、彼の楽曲が聴かれない年はありません(ベートーヴェン)。
・4歳まで言葉を話せず、7歳になるまで文字も読めなかった少年は、20世紀最大の天才と呼ばれ、相対性理論を発表。世の中のパラダイムを一新しました(アインシュタイン)。
弱さからスタートしつつも、その場で止まらなかった人たちです。
「おれは強い」と言う人はもうそれ以上強くなりません。「私は知っている」という人はそれ以上学びません。私たちの脳は常に変化を前提にニューロン同士が強く結びついたり、結びつきが弱まったりしているわけですから、停滞してしまうと、新しい記憶をつくろうとしなくなります。「強くなりたい」という想いは「強くなった自分」。つまり未来に向けたものですから、現時点の弱さこそ強さへの出発点なのです。
みっつ目は「弱くなる要素を減らす」方向で考えられるからです。
「どうなったら負けなのか」をハッキリさせ、負ける可能性を減じていくことで「勝ち」に近づきます。強くなりたいあまり、つい「何かをプラスしたくなる」ものですが、スポーツにおいて強いアスリートや勝てるチームは、準備段階において「もし負けるとしたらどう負けるか?」をシミュレートする能力が高いです。結果はわからないし、試合中も何が起きるかはわからない。不確実性のなかで勝っていくには、「負ける可能性を減らす思考」が不可欠で、負ける可能性を減らすには、考えうる負けパターンを予測する必要があります。
「負けることを考えてはいけない」というのは試合前および試合中のことであって、準備段階の早期の時点ではむしろ逆です。国内で敵なしのアスリートが「絶対に勝てない相手」を求めて海外に修行に出向くのは「私は弱い」から出発するためです。結果を出す人は、いったんゼロベースにして、そこから組み上げるから強いのでしょう。
私はカラテ選手としては逆の経験もたくさんしてきました。「次の試合、必ずこの得意技で勝つ!」とばかりに意気込んで練習するわけですが、得意技、得意パターンの機会が来るとは限りません。むしろそうならないことが多い。いつのまにか「試合」が「練習成果の披露」に傾いてしまって、相手の蹴りでKOされマットを舐めるということが何度もありました。
やはり「負けを想像できる」から、起こりうる状況に対して「負けないように準備できる」わけですし、「想定外に対応する」ためには、「想定の範囲を拡げていく」しかないわけです。そういう意味では「どれだけ負けを想定できるか」の時点から、勝負は始まっているのかもしれません。
以上が、「弱さを眺める」意義です。大切なのは「ちょっとクールに距離をとって眺めてみる態度」です。たとえば「飽きっぽいところが弱さかも」と自覚したら、あとは「飽きっぽさを利用する」「一緒にやって飽きない人と組む」など、弱さの沼に落ちない距離感を大切に。冷静な科学者のように、あるいは安全圏にいる観察者のように、時には無責任な観客のように、弱さを遠くから眺めてみてください。
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以上は拙書『強さの磨き方』の第2章、「弱さの見つけ方」の冒頭部分です。個人的には第2章はいわば「原点」のようなもっとも思い入れのあるパートです。格闘技ドクターが書く、強さの磨き方、のタイトルから「新たな精神論的、根性論的な内容か?」と誤解される向きもあるかもしれませんが、さにあらず。僕はそういうのが最も苦手で・・・。「説得されるより、納得したい」という想いで、強さ/弱さに対して、冷静にアプローチしています。