スマホとの距離を模索しています。。
どこへ行っても、
うつむいて画面を見ている人、人、人。
帰宅した自宅でも、
「おかえり」の後は、もうスマホ。
子どものそばにいても、
見ているのはスマホ。
何度でも再生可能な、
インスタの写真を見ながら、
二度と巻き戻せない
子どもとの時間を過ごす。
記憶の中の子どもよりも、
スマホの写真や動画で残った
「記録の子ども」に夢中。
何かがおかしいと思います。
正直、気持ちが悪いです。
でも、このおかしさは
止まらないし、違和感は
消えないまま、どんどん時間が
過ぎていくことは分かります。
何か考えるヒントがないのかと思い、
この本を手に取りました。
スマホを触ってしまう本当の理由
『「金魚」をすくうデジタル文明論 スマホ・デトックスの時代』
ブリュノ・パティノ
この本によると、
スマホを使う事自体、
もう脳ではなく脊髄でおこなっている。
つまり、意思や本能を超えて、
反射の域で使用するように作り込まれて
いるということ。
このサービスの提供者によって。
また、iPadを作った方々は、
自分の子どもには与えず、
利用制限のある場所、
学校へ通わせているとか。
自分の子どもが、
「依存症」になって、
呆けた顔で画面を見ている姿が
想像出来たから、それを
させたくなかったんでしょう。
また、スマホがない状態だったからこそ、
イノベーションが生まれた、と考えると、
そういった「転換的発想」を求める方々が
スマホを遠ざけるのも、さもありなん。
といった感じでしょうか?
警報は鳴り続けている。
本文中、
作った方々が制御不能と匙を投げ、
悔いたり、対策考えたりしている
発言が出てきます。
しかしながら、新しく取り込まれ、
無意識に隷属していくスピードは
どんどん加速している、
と素人の肌感覚でも感じます。
「またそんな本を読んで…陰謀論?」
と言われるかもしれません。
私自身、デジタル世界に適応出来ている
なんて、全く思っていませんし、
全然使いこなせていません。
だからこそ、
デジタル世界のトップクラスの人が
「これはとんでもない、、、やばい、危険」と考え、警鐘を鳴らしていることには、
一度は耳を傾けるべきだと思うのです。
トップの域に達する頭脳、
能力を持ち合わせていない私が、
一概に暴論、無用と言える気がしない
からです。
便利は大事。でも、選ぶのも使うのも自分自身、を忘れない。
デジタルが優れて便利なのは、
だれでも分かるように作り込んで
くれているおかげなのは
疑う余地もないと思います。
それが真に使用者を想ってであれば
良いのですが、
もしも、中毒性を持たせるためだった
としたら…
かなり意識的に見ないと、
負の面は見えてこないと思います。
「ないと仕方ない、生活できない」
それはそうなのです。
社会の仕組みがそうなってきているのは
承知しています。
※どこもかしこも「詳しくはWebで!」
じゃあ今CMであんたが喋ってた事は?
その時間はなんなんだ!
と毎度突っ込みたくなる気持ちを抑えて
いますが。。
でも、でもです。
「程度」というものが存在するはずだと
思うのです。
その「程度」が、
どこまでが適正なのか、
私にもまだ分かりません。
それでも、
「スマホをどのように使うか?」の選択
「スマホを使わない、
またはスマホに使われない」選択
選ぶ主体が私自身にある事だけは、
忘れずに持ち続けたいと思いました。
さあ、スマホを置いて、
本を読もう。地図を見よう。
と、いったあたりで
今回は終わりたいと思います。
最後まで読んで頂き有難うございました。