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空海の言葉を関西弁超訳すると親近感が凄まじい。
空海は関西の人。
もし現代に蘇ったら、関西弁を話しているのではないかな、なんて妄想をしています。
ということで空海の言葉を関西弁に訳してみました。
今回で6回目になります。
お読みくださってありがとうございます。
過去の翻訳はマガジンにまとめてあります。
やんわりとストーリー調にはしてますが
記事ごとに完結してますので、どこから読み進めても大丈夫です。
ここでの構成は、
【原文】
関西弁超訳
・・・
(僕の感想)
という順に記載しています。
ほんなら、空海の魅力的な言葉の世界を、一緒に遊び尽くしまひょ!
<51>夢落
常に三毒の事に醉うて幻野に荒猟して帰宅に心なく、夢落に長眠す。覚悟いずれの時ぞ。
人っちゅうのはな、いっつも貪ったり怒ったり愚痴言ったりっていう三つの煩悩の酒にベロ酔いして、ありもせえへん荒野をさまよって、帰んのも忘れよる。夢ん中のちっちゃい家で長い間眠ってるようなもんやぞ。
おい、いったいいつんなったら目覚めんねん?
・・・
この言葉では、空海が怒っているように聞こえるのです。
目覚めろや!と叱咤している。
「覚悟」の本来は、悟りに覚めること。
眠りから覚めることになぞらえて、早よ起きなさい!と。
オカンみたいですね。
オカンももちろん、怒りたくて怒ってるわけじゃない。僕らのことを心配して声をあげてくれてるはず。
空海の優しさでもあると思うのです。
爽やかな朝を迎える努力をしたいものです。
<52>飲水
教法は本より差うことなし。牛と蛇との飲水の如し。牛が飲めば蘇乳となり、蛇が飲めば毒刺となる。
仏様の教えにはもともと食い違いっちゅうもんはあらへんねん。牛と蛇と飲み水にみたいなもんや。牛が飲んだらバターとか牛乳になるし、毒蛇が飲んだら毒になりよる。
・・・
絶妙な喩えですね。
そのもの自体に善悪はなくても、受け取る人によって、滋養にも毒にもなる。
でも仏教が毒になる場合ってどんなことだろう、と考えたら、一つ浮かびました。
95年のサリン事件。オウムの教えには仏教が入っていたらしい。
「どうせこの世は全て幻」という部分を悪用したそう。
それくらい使いようによっては、ヤバいパワーがあるんやぞ、と空海は予言していたように思えるのです。
<53>波
水外に波なし、心内すなわち境なり。
水がなかったら波はないで。波は水が変化した姿や。それとおんなじで迷ったり悟ったりすんのは俺らの心ん中の状況のことやぞ。
・・・
水の喩えが続きます。
空海は徹底して自分の心を見つめる大切さを説く。
何か嫌なことがあって、心に大波が起こったとしても、それは水があったからこその現象。
波がひとりでに襲ってくるわけではない、と。
私たちの心は本来、自分の顔が映り込むくらいに清らかなものであるはず。
それを忘れんなや、とも受け取れると思うのです。
<54>この身
この身は虚空より化生するにあらず。大地より変現するにあらず。
俺らのこの身体っちゅうのは、なんもないとこから急に出てきたわけやあらへんし、大地から形を変えて現れたもんでもあらへんねんで。
・・・
考えてみれば当たり前のことなんですが、現代のとくに個人主義にどっぷり浸かっていると、忘れがちになっているのかもしれません。
お父さんとお母さんが、必ずいる。それぞれにもまた両親がいて、その両親にも親がいる。
アホほど多いご縁の中にアンタはおるってことを忘れるんちゃうぞ、と言ってくれている気がするのです。
<55>妄心
妄心、もし起こらば、知って、随うことなかれ。
もし心に妄想が出てきたんやったら、それがなんで起こってきたんかを探って、そんな妄想に負けて従ったらあかんで。
・・・
徹底して自分の心を見つめさせる空海が、具体的な瞬間について述べています。妄心とは、基本的には迷いのこと。
「なんでこんな事せなあかんねん」「なんの得があんねん」「めんどいわ」…
そんなこと考える前にまず行動しろ!と現代ではよく言われているような気がしますが、空海の提案は違ってます。
「なんでそんな迷いが出てくんねん?一旦自分で考えてみろや」と。
迷いが出てくる場面すらも、自分を深めるチャンス。
そうすれば自然と、行動が生まれてくる。
<56>無明の父
それ生は我が願いにあらざれども、無明の父、我を生ず。死は我が欲するにあらざれども、因業の鬼、我を殺す。
そもそもな、人っちゅうのは自分で願って生まれてきたわけやあらへん。根源的な無知を原因にして俺らは生を受けたんや。
俺は死ぬのを望むわけちゃうけども、なんかの原因があって、それになんかの動きが加わって、手加減なしのえげつない鬼が俺を殺すんや。
・・・
生まれることも死ぬことも、本来的にご都合通りにはいかないことを説いています。
親に向かって、「生んでくれなんて頼んでないわ!」という言い分も、ある意味ではその通り。
空海はそんな台詞に向かって、「だからなんや?」「みんなそうやぞ?」と嗜めているようです。
さらに「死ぬ時も一緒や。思い通りにいかへんから気をつけろよ」とも。
仏教の無常感を気持ちのこもった言葉で表してくれている。
「それが仏様の世界っちゅうもんやぞ」と。
<57>霜鬢
生は昨日の如くなれども、霜鬢たちまちに催す。強壮は今朝、病死は明夕なり。
この世に生まれたんは、ほんま昨日のことのようやけど、すぐに耳ぎわの毛も霜みたいになってまう。身体が元気なんはつい今朝方のようであるし、もう夕方には病気になって死んでまう。
・・・
これも無常感の表現。
歳を重ねるごとに年月の過ぎるのが早くなって、悲しくなるときがありますが、この言葉によると空海も同じ思いを持っていたようです。
霜鬢という単語のチョイスがまた美しい。
鬢とは、耳ぎわの髪の毛のことだそう。それが霜みたいになると。
関西弁にするとちょっと詩的っぽさが減じてしまった。
「せやから今を大事にせえよ」と囁かれているようです。
<58>師資
竊に以れば、大法味同じけれども、興廃機に任せたり。師資代を累ねて、付法人に在り。
じっと考えてみればよ、ホンマは仏様の教えには優劣などないんやけども、それが盛り上がるんか廃れるかは、人の素質とか能力によるもんや。お師匠から弟子にだんだんと教えを伝えるんは、結局は人やさかいな。
・・・
空海は、自身に受け継がれた密教の教えを、自らの代で終わらせるつもりはありませんでした。
貴重な教えを未来へと引き継ぎたいと、心から強く願っていたのです。
「めっちゃええもん身に付けたんやったら、自己完結させるんちゃうぞ」と。これは空海の弟子たちに向けた、遺言の一部でもあります。
そのお弟子さんたちの努力の甲斐あって、1200年も時を超えて私たちに言葉が伝わってきているのです。
継承すべき下の代はいますか?
<59>妙薬
妙薬篋に盈てども、嘗めずして益なし。
病気を治す特効薬が箱ん中にぎょうさん入ってても、その薬を飲まへんかったら効果はあらへんし病気も治らへんで。
・・・
妙薬とは、仏様の教えのことが主だと思います。
実践してなんぼ。
とはいえ、それって実は特別に難しいことではない、とも感じています。
前述した通り、「自分の心を見つめる」ことは、いつでもできるんじゃないか。ゴリゴリに修行するのは難しいにしても、できることはきっとある。
妙薬は自分の中にあって、見えなくしているのはいつも自分。そのことに気がつけば、この世は妙薬だらけだったり。
あとは多分、それを見つめる勇気があるかどうかだと思います。
<60>源
誠にこれ本に背き末に向い、源に違うして流れに順ずるの致すところなり。
優劣とか損得とか比較ばっかりしてる人っちゅうんは、本来の真理に背いとるし、見せかけばっかりの現象世界に心が奪われてんねん。真理の根っこに逆らって迷いと苦しみの流れに身を任せとるみたいなもんやで。
・・・
油断すると、迷いと苦しみの流れに飲み込まれてしまう。
それは本来の真理に背いているから。
本来の真理とは、これまで見てきた通り、やっぱり自分の中にあるはずなのです。でも忘れてしまう。
空海は、この世は全て幻だとも言っています。
誰か他人に造られた世界を見せられている。
真理の根っこを見つめる勇気を持てば、幻は晴れるんやで、と。
まとめ
今回の言葉は、少しライトめなものが多かったように思います。
とくに狙ったわけではなかったのですが。
現代に生きる私たちが忘れがちな大事なことを、思い起こさせて頂けた気がしています。
あなたはどのように感じましたか?
どの言葉が響いたでしょうか?
今回もこちらの本からの引用です。
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空海の本は今でもまだまだ出版されているようで、
その言葉の重みは増すばかりだと感じています。
100個くらいは関西弁に訳したいと思っているので
気長にお付き合い頂ければ幸いです。
お読みくださり
ありがとうございました。
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