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自分の思考は自分からしか出てこない
この文章は、以下の3つの書籍から着想を得た文章です。あくまでも「着想を得た」というだけであり、書籍の内容をそのまま紹介したり引用したりしているわけではない点にご注意ください。サムネイルはラムネーションから持ってきていますが、この記事でラムネーションにも少し触れる予定です。
筒井淳也『結婚と家族のこれから 共働き社会の限界』
冬原パトラ『異世界はスマートフォンとともに。』
朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』
身体的に感じ、考えるということ
サムネイルで借りたラムネーションというゲームについては、以前レビュー記事を書き、YouTubeで実況もした。
レビューや実況で伝えたかったことは、実際に体験しないとわからないことが多いから、できることなら体験してみてはいかがか、ということだ。ほとんどの人は興味のないものに時間やお金を使って体験しようとはしないし、興味があるものでさえタイムパフォーマンスなどの謎の概念を持ち出して、自分でそれに触れずに誰かがまとめてくれたもので満足する。誰かの感想は誰かの感想であって、自分がそれに触れたときにどう思うかはまったくわからない。別の話として、全体のようすを把握するためにデータを用いるのはよいが、そのデータが個別の場合において当てはまるのかは別途考える必要があるし、データとして存在しないものについては結局のところ何もわからない。
今回着想を得た三冊は、結婚や家族、異世界転生、人体の左半身と右半身それぞれに異なる人格がある人間が主人公の小説と、一見するとその題材に何の関連もないように思える。この記事では、「身体性」というキーワードで関連づけてみたい。
身体性からみる結婚
人間社会は結婚して子どもを育てるというサイクルがベースになって継続していたが、未婚率の上昇や合計特殊出生率の低下という現状を考えると、このサイクルがうまく回らなくなってきているというのはデータ上は正しい理解なのだと思う。これを社会課題と認識するのであれば、データとにらめっこして政策を決めたりエライ先生が分析ごっこをするのだと思う。しかし、未婚者や既婚者、子育てについて個人個人がどう感じているのかはデータをどれだけ集めてもほとんどわからない。データを収集しようとする人の意識から外れている情報は収集されないし、データの収集方法が適当でないこともよくあるし、データの解釈には人間が介在するため、明らかに飛躍があるような解釈も大々的に発表してしまえばそれが正しいかのように受け止められる。データを収集・分析しようとする人が見るものには、個人個人の身体や状況に紐づいた結婚や家族、子どもに関する意見は含まれていない。あなたが結婚についてどう考えるかは、あなたが既婚か未婚か離婚経験があるか、子どもが何人いるかなどによって左右されるだろう。研究者でない個人の意見であればどれだけ自分や周囲の状況(身体性)に左右されても問題ない。
身体性からみる異世界転生と障害者
私は、異世界転生をする方法を知らない(知っている人は教えてほしい)し、異世界転生した人がその後どのような生活をしているのかも知ることができない。身体性という観点では、異世界転生がどのようなものであるのかを理解することはできない。ライトノベルの主流になっている異世界転生では、なぜ言葉は話せるのに文字は読めないのかなどツッコミを入れ始めたらきりがないが、そのような状況をなかなか想像できない。赤ちゃんが喃語を話すようなものならわかるが、成長した人間で話せても読めないということはありうるのだろうか。外国語であれば話せないが読める・聞ける人はそれなりにいると思う。この逆がどのようなものであるのかは、私も異世界転生しなければ一生わからないだろう。
障害についても、普段の生活や学校での指導、仕事を通じた社会とのつながりという話はたまに目にするが、障害者やその家族が思っていることはほとんどわからない。私はたまたま障害を有していないし、親類にも障害を有する人はいない。『サンショウウオ』にも登場するベトちゃんドクちゃんなどの最低限の知識はあるが、単に「知っている」というだけであり自分で障害について何かを考えたこともない。障害者施設で働いたとしても、障害者とは顧客とサービス提供者としての付き合いになるから、障害者や家族の感覚を真に理解することは困難なのではないかと思う。
それでお前はどう考えるの?
ラムネーションに関しては実際のプレイを通じて身体的に感じるところはある一方で、上記三冊のテーマについては私は身体的には何も理解できていない。結婚や異世界転生や障害について情報を記述的に述べることはできる。自分が何かしら述べたことについて「身体的に理解できているかどうか」を自覚することに意味があるのだと私は考えている。身体的に理解できていなくてもデータをもとに論じることには何の問題もない。その場合は、自分にはわからない・知らない領域がたくさんあるということを論の限界として考えなければならない。どれだけデータを集めても見えない世界はあるし、逆に身体性に基づく考えだけでも限界はある。データと身体性は、どちらかがもう一方を完全に代替することはできない。すでにあるデータと私たちの身体性をもとに、どのように考えて何を発信するのか。「お前はどう考えるの?」と問われたときには、自分の身体性に基づく意見を出すように心がけたい。データから読み取れることと、そこから自然な推論をするだけであれば「あなたの意見」ではない。自分の考えは、自分の身体性と一体不可分である。