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【書評もどき】吐き出さざるを得なかった人間、あるいは世界中にある違和感にどう対処すればよいかについて 〜フランツ・カフカ(頭木弘樹編訳)『カフカ断片集 海辺の貝殻のようにうつろで、ひと足でふみつぶされそうだ』〜

どうも我々人類には、完成したもの、終始一貫して矛盾のない完全なものを、優れたもの、成功したもの、正しいものと判断したがる習性、というより「悪癖」があるようだ。未完成だったり、何を表現しているのかさっぱりだったりするものには、それだけで「失敗」のレッテルを貼ったり、あるいは「未完」という言葉からほのかに漂うネガティブな香りを感じ取り、あたかも完成されていないことがだめなことのように俯き加減でため息まじりに話したりする。しかし一般的な完成とは程遠いものが、何年も経つと心を掴み取って震わせる力を持つものになることがあるのだから、やはり文学という営みは(もちろんいい意味で)一筋縄ではいかない、わからないものである。そのことを改めて教えてくれたのがこの、『カフカ断片集』という一冊である。

https://www.shinchosha.co.jp/book/207107/

今年はカフカ没後100年らしい。カフカといえば『変身』や『判決』などの中短編はもちろん、『失踪者』、『訴訟(審判)』、『城』など、未完に終わってしまった長編小説が知られていて、僕もそういった「作品」ならば読んだことがあった。けれど彼がノートに書きつけたり、小説のアイデアとして残しておいたようなこれらの断片には、この本で初めて出会った。
そして読んでみて、それら断片の多面的な様に、まるで空を飛んでいるかのような感動を覚えた。これは全く誇張ではない。本当に僕は、さまざまなしがらみや束縛から解放されたような気持ちを、この本を読むことによって得ることができたのである。
本書に集められている断片には、数ページ跨ぐものからたった1行のものまで、実にさまざまなものがあるが、それら全てに、言葉一つひとつの重さと、その分量の短さによってもたらされる切迫感がある。

〔何もしないこと〕
何もしないことは、あらゆる悪徳の始まりであり、あらゆる美徳の頂点である。

『カフカ断片集』p.73

〔巨大な沼の水面〕
 人間は巨大な沼の水面だ。熱狂にとらわれたとしても、全体から見れば、この沼のどこかの片隅で、小さな蛙が緑色に濁った水にポチャンと落ちたようなものだ。

『カフカ断片集』p.117

これらの断片は短い分、一つひとつの言葉の持つ比重は小説よりも重みを持っている。それに断片という、一つの完成された作品ではないゆえに、人間という生き物が生きている限り抱え続けることになる内的な問題や、葛藤や感情の揺れを感じることができる。
〔何もしないこと〕と編訳者の頭木さんに題された上の断片(以下、〔〕で括られているタイトルは全て、編者の頭木さんがつけたものである)は個人的に、カフカの断片の中でも特にどかっと心臓や腹の奥へ何かを落とされたような読後感を味わえたものだ。その内容が、強く我々の胸を貫いていく。しかも納得できてしまうのが、なんというか悔しい。何もしないことによって、その人は労働などの社会活動を放棄することになる。だが一方で何もしないこととは、誰かを傷つけることから逃れることにもつながる。争いをなくすためには、最初から何もしないのが一番なのである、というペシミスティックな感覚には、生きていると多かれ少なかれ直面することがある。僕はこの断片を読んだとき、それを見抜かれてしまったように思い、悔しさを感じてしまったのだ。
また、〔巨大な沼の水面〕という断片には、人間存在がいかに微細なものかということが、痛烈さを伴って表現されている。ポジティブなことであれネガティブなことであれ、一個人にとって重大なこと、とんでもない感動や絶望で胸が満たされることが起きようと、それはあくまでその時の、その人の中だけで起こっていることに過ぎない。確かにそれによって波紋ができるかもしれないが、それが持続するのは決して長くない。まるで蛙が沼に落ちたときのように。
無論これらの断片から感じるものというのは、人それぞれ異なるものだ。ここから受けとめるものに、読者の数だけ差異があることこそが、カフカが書き留めたこれらの断片たちが内包するものの普遍性を物語っているともいえるだろう。

しかしカフカの断片の魅力というのはこれだけではない。短さゆえの重み、完成された作品ではないからこその多面性に加えて、これらの断片には言葉によって描かれるイメージの、絵画を見ているかのような鮮烈さ、強烈さがある。

〔死体の入った棺〕
 あるとき、死体の入った棺が、ひと晩中、わが家に置かれていたことがある。——どうしてそうなったのかはおぼえていない。ぼくらは墓掘り人の子どもだから、棺は見なれていて、寝るときにも、同じ部屋に死体があることをほとんど気にしなかった。

『カフカ断片集』、p.49

 〔死の川〕
 亡者たちのたくさんの影が、死の川にむらがり、夢中になってその水を舐めている。
 川は、わたしたち生者のところから流れてきて、わたしたちの海の塩気をまだ含んでいるからだ。
 やがて、川は嫌悪のあまり逆流し、亡者たちを生者の世界に押し流してしまう。
 彼らは歓喜し、感謝の歌をうたい、怒れる川をやさしく撫でる。

『カフカ断片集』、p.56

これらの断片には、カフカの作品を形容するときにしばしば使われる言葉である「夢のような」イメージが描かれている。またこの二つの断片はどちらも「死」「死者」をテーマとして扱った、この断片集を代表する二篇といってもいいかもしれない。というのも、この本に収められている断片には、「死」「亡者」「自殺」「絞首刑」といった「死」に関係するものが多いのだ。そこにもカフカの思考の「癖」のようなものを見出すことができるように思う。
〔死体の入った棺〕は、「ぼく」として登場する人物の家にある晩置かれていた、「死体の入った棺」に関してのエピソードである。ひと晩中置かれたその棺桶について、「ぼく」は「どうしてそうなったのかはおぼえていない」が、「ぼくらは墓掘り人の子ども」なので「同じ部屋に死体があることをほとんど気にしなかった」という。この「ぼく」の語りには、死に対して通常人が抱いている感情——恐怖とか、忌避すべきものというような考え——は全く見出せない。「墓掘り人の子ども」である「ぼく」にとって死は身近なものであり、そこ死者を特別視するような視線は感じられない。つまり「ぼく」は死を人間にとって「当たり前」のものとして捉えている節があり、そういった捉え方は、人間は死ぬものであるという、当たり前と思っているようで生者である我々が生きているときは忘れてしまっていることを思い出させてくれる。しかしそれにしても、死体の入った棺がある部屋でスヤスヤと眠る姿はグロテスクなものだ。ここには死者と生者が、生者が死者を特別視しないがゆえに同列に並ぶというグロテスクさ、強烈さと、その一方で「生と死」についての真理を突いているように感じる、奇妙な抒情性を感受することができるだろう。僕ら生者は、「ぼく」のように常に死と隣り合わせなのである。それにこの部屋の光景は、一見奇妙なものだが絵画的でもあり、目の前にその光景がパッと浮かぶという不思議さがある。まるで石井徹也の絵にあるような光景と感じるのはぼくだけだろうか。
もう一つの〔死の川〕では、すでに亡くなった者たちの影が死の川に群がっている。なぜその川に群がるのかといえば、この死の川の水が生者たちのところから流れてくるからである。彼らはそこから生者の世界の海の塩気を感じ取り、その川面を舐める。ここでは生に連続するものとしての死のイメージが表現されているように感じる。死の川は生者の世界の世界から流れ出るように、人間もまたその川の流れに沿うように死へと向かっていく。それはやはり当たり前なことこの上ないが、当たり前だからこそ生者である我々が忘れてしまうものだ。しかしこの川はそういった当たり前に反するように逆流を始める。その理由として断片内では「嫌悪のあまり」と書かれているけれども、おそらく亡者たちが、生者の世界の海の塩気を味わおうと舐めてくるのが不快だからなのだろう。彼らはなぜそうまでして塩気を含んだ水を味わおうとしているのだろうか。これも読者それぞれの答えがあると思うけれど、僕はやはり死という、当たり前だがその一方で(人間にとって)不条理なものに対するせめてもの反抗の姿勢だったのではないかと思うのだ。カミュではないけれど、やはり死というものは我々人間の主観からは受け入れられない不条理なものだ。そういった、人間にとって受け入れることの難しい死という現象を内包するこの世界に対する反抗をカフカは、この亡者たちが生者の世界の塩気を感じるために川面を舐めるという行為のうちに潜在させているように感じるのだ。それはヴィヴィットな姿勢ではないが、生の世界に対する死者の憧れは、裏を返せば死が、人間にとっていつやってくるかも、なぜそうなるのかもわからない不条理なものであることを表現するものとなっているのだ。そのため理と異なり、死の川が逆流し、「亡者たちを生者の世界に押し流してしま」ったことにより、亡者たちは「歓喜し、感謝の歌を歌い、怒れる川をやさしく撫でる」のではないだろうか。この断片において「死」は、当たり前のものであると同時に、すでに死んでしまったものたち=亡者たちにさえ受け入れ難い、人間にとって、世界で最も不可解なものの一つでもあるという、二つの側面を持つものとして描かれているように読める。

この二つの断片はまるでシュルレアリスムの絵画のようだ。この言葉による鮮烈な描写によって、この断片集はいわゆる格言集の類とは全く異なるものなのだということがわかる。これは編者の頭木さんのいうとおり、「小説のかけら」(p.222)なのだ。この断片たちはあくまでフィクションであり、小説として成長していく余地のあるもののように見えるからだ。これらのイメージは一見するとわかりにくいけれど、そこにはそれぞれカフカの書く言葉からあふれ出る何か、彼の頭の中で生まれて、書くこと以外にどうしようもなかった何かが息づいている。これらの断片たちは、カフカがどうしても書かなければならない、書かないと生きていけない、いや、書くことで生き延びることができたとさえいえるようなものの痕跡なのかもしれないと感じるのだ。
確かにこれらの断片は結局は小説としてはあまりにも短いし、詩と呼ぶにはアンバランスなものだったのかもしれないけれど、でもこれを書くことでカフカは、今日もまた生き抜くことができた、と安心していたのかもしれない、と僕は感じている。

さて、それでは次に、個人的に気になった断片をいくつか取り上げて、そこから自分なりに考えた(妄想した?)ことを書き留めようと思う。
まず最初に取り上げたいのは、編訳者によって〔桟敷席〕というタイトルをつけられた、少し長めの断片だ。ショートショート、掌編小説といってもいいかもしれない。
内容をざっと説明しよう。エミールという男は妻と一緒に桟敷席に座って芝居を見ている。芝居は夫が妻に嫉妬し、逃げようとする妻に夫が剣を振りかざしているシーンに入っている。と、そのとき桟敷席の手すりに一人の小さな男が腹ばいになっていた。その小さな男はエミールと全く同名で、彼の妻の崇拝者であると述べる。妻は夫エミールに助けを求め、エミールはその小さな男を糾弾する。

「この野郎」とわたしは言った。「もうひとことでも言ってみろ、下へ突き落としてやる」
 そのひとことをすぐにも口にしそうだったので、わたしは男を突き落とそうとした。しかし、そう簡単にはいかなかった。男は手すりと一体化していて、まるで造りつけのようで、どうしても転げ落ちないのだ。
 おことはにやりと笑って言った。「やめときな、間の抜けた坊や。今からへとへとになってどうする。闘いはこれからだ。もちろん、最後にはおまえの奥様がおれの望みをかなえてくれるわけだ」

『カフカ断片集』pp.106-107

エミールは自分の妻を守ろうとするが、なかなか小さい男を突き落とすことができない。小さい男はエミールを嘲笑い、彼の妻が自分の望み、すなわち「ひじを身体にのせてもらえる」という願いを叶えてもらえるだろうと予告する。妻はエミールに小さな男を突き落とすように催促するが、エミールは相変わらず苦戦してしまう。

「それができないんだよ」とわたしも叫んだ。「せいいっぱいやっているのは、わかるだろ。でも、どういうわけか、うまくいかないんだ」
「どうしよう、どうしよう」と妻が嘆いた。「わたし、どうなってしまうの」
「落ち着くんだ」とわたしは言った。「頼むよ。おまえに取り乱されると、ますますやりにくい。…(後略)…」

『カフカ断片集』p.107

せき立てる妻に対し、エミールは少し苛立っているようにも読める台詞を吐く。「落ち着くんだ」という台詞は、他ならぬ彼自身に対して言っているようにも感じるほど、彼は落ち着きを失っているようにも見えてしまう。その後エミールは、ナイフで手すりのビロードを着ることで、小さな男を落とすことを思いつく。しかし肝心のナイフが見当たらない。ナイフがないかポケットを探るべくクロックにコートを取りにいこうとするが、妻にひとりにしないでと言われてしまう。そして妻は、自分のナイフを使ってと言って取り出すのだが、そのナイフは「当然のことながら、螺鈿をちりばめた化粧用のごく小さなナイフ」であった。
この断片には明確に、一種のマチズモ願望、「男らしい」男でありたいという願望が感じられる。そして重要なのは、その願望が絶対に叶えられない点である。夫婦の夫は、妻を守らなければならないと考え、実際妻からも助けを求められるのであるが、夫は突如現れた妻の崇拝者を「排除」することができない。このシーンは近代社会で男性の美徳とされたものを反映しているように、僕には読めるのだ。すなわち彼は小さな男を倒すことで妻を守り、そうすることで近代社会における夫の役割を果たそうと、つまり家父長的な、強く、たくましい夫であろう、父であろうとしているのである。しかしそれが結局うまくいかない。ここで出てくる小さい男は一見、すぐに倒せそうな存在であるが、エミールはその排除に手こずり、結局は妻から「化粧用のごく小さなナイフ」をもらうことになる。ここからもこの断片には「男らしく」生きること、社会的に男性として認められることができないでいる、マチズモ願望を持つことの虚しさが描かれているように感じる。
この小さな男が現れたとき、妻から「助けて!お願い!」と声をあげている点も、この断片では重要な部分かもしれない。妻はこの断片で夫に、小さな男から自分を守ることしか要求していない。それに対して夫は、「せいいっぱいやっているのは、わかるだろ」「頼むよ。おまえに取り乱されると、ますますやりにくい」と口に出しており、妻からプレッシャーを感じてしまっているようにも読み取れる。それにこの「小さな男」という存在も寓意的に感じられないだろうか。夫と同じエミールという名前である点からも、僕にはなんとなく、この小さい存在が、夫の分身のような存在に見える。もちろんただの分身ではない。この小さな男には「黒いあご髭をはやしている」ように、「男性的」な特徴が強調されている。また「手すりの上で腹ばいに」なっていたり「ゆっくり寝返りを打」つなど、かなり余裕のある様子である。ここから、この小さな男の正体は、夫にとっての男性の理想像のようにも見える。
つまりこの断片は、「男らしさ」を要求してくる妻と、自身が抱える理想の男性像との間で板挟みになっている、一人の「男らしさ」に馴染めていない男性の悲劇としても読めるのだ。そしてこのことから、もしかするとカフカの内奥には男性性というものへの違和感、「男らしさ」を求められる社会への受動的な反発が芽生えていたのかもしれない、などと想像するのも面白い。彼にとって「男らしさ」なるものやマチズモは、自分の首をゆっくり締めてくる縄のように感じられていたのかもしれない。

このような、「男らしさ」に対する違和感のようなものをすくいとったような断片は他にもある。例えば、〔ドアの外でのためらい〕というタイトルを付けられた以下の断片は、そういった違和感を極めて暗示的に示しているように、僕には読めるのだ。

おまえはいつもドアの外をうろついている。
思いきって入っていけ。
中ではふたりの男が、粗末なテーブルにすわって、おまえを待っている。
おまえがためらっている理由について、話し合っているのだ。
騎士のような中世の衣装を着た男たちだ。

『カフカ断片集』p.87

「おまえ」と呼びかけられた人物の性別は明記されていないが、おそらく男性だろう。カフカ自身が男性だから、ということ以上に、この断片の中で「おまえ」と呼ばれている人物は、ドアに入ることを躊躇うかのように、その「外をうろついて」いて、そのドアの中では、「騎士のような中世の衣装を着た」「ふたりの男が、粗末なテーブルにすわって、お前を待っている」からだ。この「ふたりの男」が、仲間として「騎士のような」格好をして戦う覚悟を持った男性としての「おまえ」を待っているように読んでいて感じたのである。「お前がためらっている理由について、話し合」いながらだ。おそらくこの二人は、なぜ「おまえ」がそんなにためらっているのかがわからず、話し合っているのだろう。
「戦うことは名誉なことなのに、なぜあいつは怖気付いているのだ?」
そんなことさえ言っているのかもしれない。「男らしく」、勇敢に戦い、英雄として名を残す覚悟が「おまえ」にはできていないのか?そう言われながら、「おまえ」は「ふたりの男」から嘲られているのかもしれない。
「おまえ」がその周りをうろうろしているこのドアは、男性が社会的な意味合いで「男」として、つまり、勇敢で、力があり、しっかり自立し、しっかりと自分に与えられた務めをこなす「男らしい」存在として受け入れられるための社会的な(近代社会に潜在している)試練を暗示しているのかもしれない。「おまえ」ももちろん、その外をうろうろしている時点で、そういった「男らしい」男になって、社会的に認められたい、と思っているのだろう。しかしその一方で、自分がそのような「男らしさ」など持ち合わせていないこともわかっていて、だからドアの中に入れないでいる。この断片にも、そういった一種のマチズモへの同一化の願望とそれに対する諦め、さらにはそもそもなぜそのような同一化願望を抱いてしまうのかという自身への苛立ちさえも感じることができる。
先ほど、断片を読んで感じるものは、人それぞれ異なるものだと書いたが、それは読者がそれを読むことによって読者自身も能動的に、自分の内側から出てくる感情を表出せざるを得なくなる力が、カフカの断片にはあるからだともいえるだろう。

また個人的には、家族というものについて書いてい断片も印象に残った。例えば、〔切れないパン〕という断片は、父親がテーブルの上の大きなパンをナイフで切ろうとするが、なかなか切れない。子どもたちは目を丸くして父をみるが、父はこう言って子どもたちを寝室に行かせる。

「何を驚いているんだ?物事はうまくいかないのがあたりまえで、びっくりするなら、むしろうまくいったときだろ。さあ、もう寝なさい。あとはお父さんがやっておくから」

『カフカ断片集』p.94

なんとなく言い訳がましく聞こえるのは、僕だけなのだろうか。父親は子どもたちが寝室に向かった後も、「右足を前に出してふんばって」(p.94)パンを切ろうとしていたが、結局切れずにいる。
この父親の悪戦苦闘ぶりに子どもたちも心動かされたのか、「いいところを見せたくて」(p.95)父の代わりにナイフを持って切ろうとするが、やはりうまく行かない。結局パンは最後まで切れずに「みるみる収縮していった」(同上)。
この断片に出て来る父親は、初めはなんとしてでも自分の力のみでパンを切ろうとしていた。子どもたちを寝かせた後も自分だけでパンを一生懸命に切ろうとしているのを子どもに目撃されている。この父親もまた、エミールたちと同様に、一種のマチズモの呪縛に囚われているのかもしれない。しかも今回は明確に「父親」と書かれることで、彼が「父親」という役割を、「家族」という共同体の中で担わなくてはならないということが強調されているようにも読める。もしこの父親が「父親」という役割、特に近代の「家父長」としての父親像に意識的だとしたら、なおさらこの父親にかかっている重圧は耐え難いものであろう。そしてここで描かれている父親は結局、近代社会における家族の中で、「家父長」としての役割を担うとされていた「父親像」に近づけなかったのかもしれない。それでも自分が担わなければならない(という意識が社会全体に潜在している)「家父長」という立場、「父親」たる男性が理想とすべき幻影が、この父親を諦めずにパンを切るという行動に駆り立てたように思えてならない。最終的にこの父親はナイフを子どもたちに渡しているので、やはり彼の「理想的な家父長」像に自己を近づけることに失敗しているのと見ていいのだろう。この断片はそういったマチズモの呪縛に縛られっぱなしの男性を滑稽に描写しているものとして読むことが可能だ。
一方子どもたちも、結局はパンを切ることができない。「持ち上げるだけでも難しかった」と言っているように、子どもたちは父親以上に歯がたたない状態になっているように見える。ここで「家族」という共同体における父と子の関係がどのようなものとして提示されているかに、僕は注目してしまう。子どもにとって父親というのは超えたくても越えられない存在として、一生つきまとうように感じてしまう存在だ。フロイトのエディプス・コンプレックスのような、とまでは行かないにせよ、家族の中で「家父長」として振る舞おうとする父親を、少しでも越えたいという願望を持つ子どもの姿が、この断片には描かれているように思う。ただ重要なのは、父親も子どもも、自身に課された理想や願望を実現するのに失敗したままであるということである。父はパンを切ることができなかったことで、立派な「家父長」、強くて逞しい親父になることはできず、子どもも父がきれなかったパンを切る、という試みがうまく行かないことで、父親を超えるという願望が叶えられない。カフカの作品について論じるときに、しばしばカフカの父ヘルマンとの関係性について触れられることが多いが、ここでは自身の父との関係を仄めかすことで、家族の中で何かしらのコンプレックスを抱かなければならない自己の肖像画を、カフカなりに残そうとしたのかもしれない。
「家族」という共同体つながりでいえば、この断片集には、そのものずばり〔家族〕というタイトルが与えられた断片がある。これは先ほどの〔桟敷席〕や〔切れないパン〕と違って、比較的短いものだ。

 彼は自分の人生のために生きているわけではなく、自分の考えだけで考えているわけでもない。
 家族からの強制のもとで、生きて、考えているように、彼には感じられるのだ。
 家族には生きる力や考える力が満ちあふれている。
 しかし、彼にとって家族は、彼にはわからない、なんらかの掟によって、形式的に必要とされるものでしかない。
 このよくわからない家族と、よくわからない掟のせいで、彼が解放されることはありえない。

『カフカ断片集』p.177

この断片では「家族」というものが「よくわからない、なんらかの掟」により必要とされるものでしかない、と表現される。注目したいのは、この断片内の主観となる人物が、やはり「彼」という男性三人称で表されていることである。筆者はドイツ語がわからないため、原文を確認することはできないが、翻訳通りに受け止めるとするならば、この断片の主体となる人物は男性であるということになる。「彼」は自分の人生を生き、自分の考えで考えることができず、ただ家族の中で「家族の強制のもとで」生き、考えることしかできずにいる。この「よくわからない、なんらかの掟」による家族という存在によって、「彼」が「解放されることはありえない」とさえ書かれている。ここではカフカが、男性として担わねばならないとされている家族内での自身の役割に対する違和感を、他の断片よりも直接的に吐露しているように読める。もちろん、女性たちもまた「母親」「姉」「妹」などの役割を担わされており、この断片が書かれた時代背景を考えれば、男性以上にその役割からはみ出ないように抑圧されていたはずである。「彼」という代名詞が男性を指すことが現代では多いことから、ここでの「彼」を男性と仮定するとすれば、当時、家父長であった「父親」には家族内で絶大な権威を持つ存在であったともされるが、それはそういった権威を自らに見合うような、社会的な承認を得られるような男性になる必要があり、そこでは家族を養うべき男性が持つべきとされた「男らしさ」を保持しうる存在であることが最低条件として示されるだろう。これは「長兄」にしても同じことであり、彼はしっかりと父から家父長の座を告げるような、自立した男性としての自己を確立できるようにしなければならない。つまり「父親」が保持している「男らしさ」を、「長兄」もまた保持できるように=「継承」できるようにならなければならないのだ。また「弟」であったとしても、家父長にはならずとも最終的には一人の「男性」として自立しなければならず、その一方で「弟」であるがゆえに、特に「父親」や「長兄」からの抑圧を受けることもありうる。「お前は弟なのだから…」と、自分が行動が押さえつけられる感覚を持ってしまうこともありうる。近代社会において「家族」の中に属するとは、その立場によって異なる役割に縛られることであることなのだ。
そしてこのような、当時の家父長制的な家族の姿への違和感を吐き出す手段が、断片だろうがどのような形であろうが、書くという行為で残すことであったとはいえないだろうか。カフカは確かに自身のうちに消極的ながら存在している、マチズモ的なものへの憧れの感情を感じ取っていた。そしてそれと自身の同一性を一致させようとしながら、そんなことをする自分に対してほのかな違和感を感じていた。この違和感は、誰にも理解されなかった。とたん、彼は苦しくなったことだろう。なんだ、なんだこの苦しさは。理解されない、されど、この違和感を見て見ぬふりをすることはできない……
この違和感をなんとか吐き出さなければ、この違和感を言語化して、書き記す必要がある。後世にその記述が残るとか、この考えが未来には受け入れられるだろうとか、そんなことはどうでも良かったのかもしれない。書かずにはいられなかったのだ、この苦しみ、誰も理解してくれないだろう苦しみを吐き散らすために。

このように考えれば、彼がこの断片を小説として大成させず、未完成のまま残している理由がよくわかるだろう。そもそも、完成を目指して書かれたものではなかったのだ。彼はこれらの断片を書く際にも、確かに彼の書く小説のような、幻想や夢の中のような世界を作り上げている。しかしそれを「作品」として発表しようとはさらさら考えていなかった。むしろ彼は個人的で、他人は理解してくれないであろうと考えた悩みや考え、些細だがそれゆえに自分の頭を離れることのない心の揺らぎを、ノートに託そうとしてこれらの断片を書いたのだと思う。彼は吐き出さずには、書かずにはいられなかったのだ。少なくとも、僕はこの本から、世の「当たり前」や「規範とされるもの」に対する違和感に苦しみながら、書かずにはいられずにノートを手に取るカフカの姿が見えるのである。

最後に、カフカが「書く」という行為そのものについて書いている、ある断片の一部を紹介してこの長ったらしい拙文を締めたいと思う。ここはまさしく、彼が「作品」ではなく、自身の感情をそのまま吐き出したものとして、大量の「断片」を残したことを示しているものであると思うから。

 自伝を書こうというのではなく、自分の人生の構成要素、それもできるだけ小さなものの調査と発見だ。
 それをもとにして、自分を立て直してみたいのだ。

〔自分を立て直す〕『カフカ断片集』p.132






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