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光を観てしまった人たち 『観光―日本霊地巡礼」(中沢新一、細野晴臣)

『観光―日本霊地巡礼」(中沢新一、細野晴臣)

中沢新一先生が初期の頃に書いた本が「観光」と言うタイトルだったので、どのような本かと思えば、非常にマニアックで、でも中沢先生の原点というか、本性というかそういうのがわかる本ではないだろうか。
観光というのは、一般的なイメージでは物見遊山的なものを考える人が多いだろうが、この本は違った意味で光を観てしまっているのではないかと思う。

初版は1985年に書かれた本なので、だいぶ昔に書かれた本なのであるが、今読んでもどこか新しさというか一周回って先生たちの思考に追いついてきたというのを感じる。1980年代がどんな時代だったかというのは僕には実感がないのであるが、でも、この時代でもこういう本は特異な本だったのではないだろうか。

でも、この時代からすでにこんな発言をしており、それを研究し続けていたんだと思うと、根っからというか本当に中沢先生のライフワークであり、使命なんだろうなと思った。

細野晴臣氏については、音楽に疎い僕は全然存じておらず、YMOについては言葉は聞いたことがあるが、音楽は意識して聞いたことはなかった。でも、二人の対談を読んでいると、細野氏もとてもぶっ飛んでいることがわかるし、そして、それを音楽で表現しようとしていることのすごさがわかる。

二人がどうして出会ってしまったのかわからないが、でも、実際に二人で、そして仲間たちと一緒にラインを歩き観光することはとても重要なことだったのではないかと思う。今であればインターネットでもいくらでも情報が得られると思うかもしれないが、インターネットに載っている情報なんて世界のほんの一部に過ぎないのだ。

そして、実際にその場行くことでしか感じられないものがある。そこに行くことで動くものがある。それは、その瞬間にそこにいることでしかあり得ないのだ。世界がどうしてそうなっているのか。人間がどうしてそういう生き物なのかわからないが、やはり物理的な体を持ってしまったからには、それを活用することはとても重要なのだろう。

これが書かれた時から40年近い月日が流れている。残念ながら世の中はどんどん悪い方向へ進んでいる。果たして人類に救済はあるのだろうか(この本を読んでしまうと結論は・・・)。

この本の副題は日本霊地巡礼となっている。今だと聖地と呼ぶところだろうか。いつから聖地なんて言う呼び方をするようになったのだろうか。でも本来は霊地は聖地でもあるのだ。そして、人は巡礼する生き物である。どうしてこうも動かずにはいられないのだろうか。

世界(の叡智)を観るためにも、僕たちはまた巡礼の旅に出る必要があるのかもしれない。こんな時代だからこそ、光を観るために歩くのだ。

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