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【ザ・ディベート】多角的に考えるための手段

オススメ度(最大☆5つ)
☆☆☆☆☆

〜誤解されるディベート〜

ディベート、討論というと、多くの人が「対立的に言葉で相手を攻撃的にやり込める言い争い」というイメージを持っていると思われる。
かくいう僕もそのひとりで、討論だの議論だの相手を言い負かすことを良しとする人をあまり良く思ってはいない。ネットやテレビの討論番組を見るのもあんまり好きではない(昨今の「論破」ブームに飽き飽きしていることも、このnoteではお伝えしている)。

しかし、本書の著者はその思い込みに待ったをかける。
日本人はディベートというものを誤解している。「日本人はディベートが上手くない」というのは、そもそもディベートを正確に理解していないからだ、述べる。

本書は、ディベートとは何か?から始まり、実際のディベートの方法からそれを教育や社会で実践するためのヒントまで、ディベートの本質を丁寧に解説してくれる。


〜多角的な視点から考えるためのディベート〜

僕が驚いたのが、実際のディベートの大会では肯定側か否定側かを当日にくじで決めることがある、ということだ。

ディベート大会参加者はテーマに関する情報や資料を集めるための準備期間が与えられる(大会や内容によって1週間や1ヶ月など様々)。しかし、肯定側か否定側かは当日にならなければわからないため、双方向から情報を集めなければならないのである。
例えば、「死刑を廃止するか否か」というテーマが与えられたとする。仮に自分の信条的に「死刑は廃止すべきだ」と考えていたとしても、設けられた準備期間には死刑を廃止した場合のメリット・デメリット、そして、死刑を廃止しなかった場合のメリット・デメリット両方について情報収集しなければならず、また、ディベート本番には「死刑は残すべき」という立場で立論しなければならなくなる可能性がある。

また、ディベートの形式によっては同じテーマで2回試合が行われるが、1回目と2回目で肯定側と否定側を入れ替えることもあるのである。さっきまで「死刑廃止」で立論していた者が、次の試合では「死刑残置」として試合をすることとなる。

ここからわかることは、ディベートが文化としてある国々では、ディベートはある問題について決着をつけるための手段ではなく、多角的に問題を捉えることによって深く思考するための手段である、ということだ。

ディベートとは目的ではなく手段であり、多角的に物事を考えることで、決着のつき難い問題の本質や妥協点を見出すための思考ゲームなのである。


〜勝敗をつけるのがディベートの目的ではない〜

ある問題について深く考えるための思考ゲームであるから、ディベートそのものも(大会などを除いて)勝敗をつけること自体が目的ではない。問題を深く考えることで、どのような切り口で反論し、どのような過程で問いを生み出したのか。公平な総評が出来る第三者の存在が必要となる。

もし、企業や教育の現場でディベートを取り入れるとしても、ディベートのルールや形式、ディベートをやることの意義や哲学を参加する全ての人が理解していなければ、望むような結果は得られない。本書はディベートの具体的なルールやその方法も詳しく解説してくれる。

ディベートの重要性を理解して、自分のいる環境に適用したいと考えている人にとっては、非常に参考になる一冊である。

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