大学の不祥事再び
またもや不祥事
先の日本大学に続き、今回は東京女子医科大学を舞台にリーダーシップと独裁を履き違えたトップの体制が、背任という明確な違法行為の存在によって顕在化し、その是正が求められています。私立学校においては、こういう不祥事は以前から度々起きています。
リーダーシップか独裁か
更に近年は、2014年の学校教育法の改正による、実質は地位の格下げである教授会の役割の明確化や、選考会議を主体とした国立大学における学長選考方法の変更が、国公立大学でもリーダーシップと独裁との危うい状況を生んでいるとの指摘がなされる様になってきています。国公私立のどのセクターでも独裁的な体制が増えているという事なのでしょうか?
それにも関わらず、文部科学省は学校教育に関する法律を更に固めて、各学校の自律性を犠牲にして、「社会への信頼」という文部科学行政の組織保身を図っているかの様な改正を繰り返しています。
統治される教育か教育の統治か?
戦前の教育史では、私立諸学校の突き上げが、官公立学校の優位な体制を変えていった学校教育の流れがありますが、戦後はGHQの教育方針以来、官が主導して民がそれを追いかけるという逆転の流れで学校教育が進んでいます。
いまだ高等教育では私立学校の占める割合がその他のセクターと比べて高いのが現状ですが、民の立場からの改正への動きは、私立大学対専門学校の叩き合いや私立大学の自爆行為で、実のあるものが殆ど進んでいません。
法での統治の根底にありながら、法になじまないのが教育ではないでしょうか。法で縛る前に、教育の自律性から規範が生まれ、慣習として受け継がれるという方が教育にとっては好ましいあり方かと思います。
不祥事が起きる度に、叩くだけではなく、それを教訓に制度を見直していく態度を、民の立場から官に対して突き上げて行くという流れが、本来の日本的な教育の方向性ではないかと云うことを、史的展開から考える癖のある立場のものとして考えています。
不祥事自体は責められる事ですが、そこから制度の欠陥を見出し、自律的に改める姿勢を今後見出していく事こそ、これからの教育に携わる者に必要な見識ではないかと思い、今回のことを自省しつつ、より良い教育制度のあり方について発信していきます。