見出し画像

メモ 1967年の第三次中東戦争でイスラエルが実施した空軍による奇襲

イスラエルは建国当初から周辺諸国と対立してきましたが、国土が狭隘であったために、軍事態勢として守りよりも攻めを重視してきました。研究者のマーティン・ファン・クレフェルトはイスラエルがその地理的制約を踏まえて攻撃能力を重視するようになり、それも短期間で最大の火力を発揮できるような高度な攻撃能力を目指すようになったことを指摘しています(ファン・クレフェルト、邦訳、351頁)。この戦略が具体化した作戦の事例として、第三次中東戦争(1967)があります。このとき、イスラエル空軍は重要な役割を果たしました。

第三次中東戦争においてイスラエルはエジプト、シリア、ヨルダン、イラクと交戦しましたが、その遠因にあったのはパレスチナの問題でした。イスラエルは長年にわたってパレスチナの武装勢力と交戦を繰り返してきましたが、1965年以降にパレスチナの武装勢力の活動が激化すると、イスラエルも報復攻撃で対応し、パレスチナを支持するエジプトやシリアとの対立が深まっていきました。1966年11月4日にソ連の呼びかけに応じてシリアはエジプトとの共同防衛条約に調印し、イスラエルと対決する姿勢を明らかにしました。イスラエルはこの軍事同盟にヨルダンが追加で加盟する事態を防ごうとして、11月12日から13日にかけてヨルダンに侵攻しました。イスラエルによるヨルダン侵攻で地域の緊張はさらに高まることになり、翌1967年5月17日にはアラブ連合は対イスラエル戦の準備を開始しました(浦野、514頁)。イスラエルはエジプト、シリア、ヨルダン、イラクの動きを知り、自国が攻撃を受ける前に行動を起こすことで、戦いを有利に進めようとしました。

1967年に第三次中東戦争が開始される前から、イスラエル空軍は敵対するエジプト空軍を奇襲するための情報活動を続けていました。イスラエル空軍は、平素の情報活動を通じて、どの飛行隊がどこに位置しているのか、どのように運用されているのかを把握していました(同上)。地上整備員の訓練に高い作業効率を要求し、限られた戦力を効率よく運用するように努めていました。1956年の第二次中東戦争のイスラエル空軍は航空機の稼働率を30%から40%程度に保つのがやっとでしたが、1967年には保有する航空機200機のほぼすべてを稼働状態にできるだけの整備能力を確保していました(同上、352頁)。この能力はイスラエル空軍が短期間で集中的に航空打撃を加えることを可能にしました。

1967年6月5日午前6時45分、イスラエル空軍は欺騙を目的とした通常の哨戒飛行を実施してから、次々と飛行隊を発進させました。第一波となった部隊は7時45分ぴったりにエジプト空軍の飛行場10か所を同時に奇襲し、第一撃を成功させました(同上)。当時のエジプト空軍はおよそ500機の航空機を保有していましたが、イスラエル空軍の第一波で195機を失い、空中で9機が撃墜され、飛行場の多くが使用不可能となりました(同上、353頁)。第二波の攻撃を担う部隊は9時15分に離陸し、さらにイスラエルから遠方にあったエジプト空軍の飛行場を攻撃し、およそ100機を撃破することに成功しました(同上)。

エジプト空軍の戦力を撃破したイスラエル空軍は、すぐにシリア正面に対する作戦を開始しました。シリア空軍は奇襲された時点でエジプトの要請に基づいて、イスラエルのハイファ地区にあった石油施設に対する航空攻撃を試みましたが、その攻撃は設備に深刻な損害を与えるまでには至っていませんでした(同上、354頁)。こうしたシリアからの脅威に対処するため、イスラエル空軍は5日12時からダマスカス国際空港と、その他の4か所の飛行場に対する航空攻撃を実施しました。この攻撃でも2時間ごとの間隔で2波にわたって実施されており、攻撃目標となった飛行場は設備の損傷で機能を喪失しました(同上、354-5頁)。

「イスラエルの200機の作戦機は、約1000回出撃することができた。そのうち750回はエジプト、残りはシリアやヨルダン、イラクに対して行われた。イスラエル空軍のパイロットの数は、航空機の数よりも若干多いだけだったため、ほとんどのパイロットは1日に5回も離陸して戦闘しなければならなかった。(中略)このようなきわめて速い作戦テンポが可能となったのには、いくつかの理由があるが、それは、イスラエル人パイロット自身の体力と動機、地上要員の卓越した技量、そして飛行距離が短い場合が多かったこと、などであった」

(同上、356頁)

イスラエル空軍が6月5日の第一撃で敵の航空機を離陸前に撃破し、航空優勢を獲得していなければ、6月6日以降の陸上部隊の作戦行動を支援することは簡単ではなかったはずです。イスラエル軍はヨルダン正面ではヨルダン川西岸、エジプト正面ではシナイ半島、シリア正面ではゴラン高原を相次いで占領することに成功し、その後の戦いでも主動的な地位を保つことができました。戦争は6月10日で終わりましたが、その短期間の作戦で獲得した作戦上の戦果はイスラエルにとって大きなものでした。

ただし、この戦争はこれでは終わったわけではなかったことは指摘しておくべきでしょう。イスラエルの占領地では破壊工作が相次いで発生しており、1969年にはパレスチナの武装組織が拠点を置いていたレバノンに対する爆撃を実施し、1970年には地上部隊を侵攻させる事態にまで発展しました(浦野、515頁)。1973年の第四次中東戦争では、イスラエルがアラブ諸国から奇襲を受ける立場に立たされ、イスラエル空軍も大きな損害を出すことになりました。

見出し画像:Government Press Office (Israel)

参考文献

Van Creveld, M. (2011). The Age of Airpower. London: Public Affairs.(邦訳、マーチン・ファン・クレフェルト『エア・パワーの時代』源田孝訳、芙蓉書房出版、2013年)
浦野起央「第3次中東戦争」『20世紀世界紛争事典』三省堂、2000年

関連記事

いいなと思ったら応援しよう!

武内和人|戦争から人と社会を考える
調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。