メモ 訓練と経験が部隊の戦闘力に及ぼす影響:ラ・エ・デュ・ピュイの戦闘(1944)
1944年7月3日、北フランスのノルマンディー地方に上陸し、内陸方面に向かって前進を開始したアメリカ軍の第8軍団は、ラ・エ・デュ・ピュイ(La Haye-du-Puits)を占領するドイツ軍の防御陣地に対する攻撃を開始しました。トロイ・ミドルトン軍団長は、作戦区域の西翼に第79歩兵師団を、中央に第82空挺師団を、東翼に第90歩兵師団を割り当て、V字型の陣形をとって、ラ・エ・デュ・ピュイの北側に位置する高地をドイツ軍から奪取するという戦術構想を採用していました(Blumenson 1961: 54)。
この攻撃はドイツ軍から激しい抵抗を受けました。主要な原因は、第一にラ・エ・デュ・ピュイの北側に広がる平野が幾重にも生垣で区分されており、それが部隊の前進を妨げる障害効果をもたらしたこと、第二にドイツ軍が高地に置いた監視哨がアメリカ軍の地上部隊に対して効果的に砲撃を誘導できたことでした(Ibid.: 55)。そのため、ミドルトンは大規模な火力支援に頼らなければなりませんでした。当時、ミドルトンは砲兵大隊9個を投入しており、その中には240ミリ榴弾砲を装備した大隊2個も含まれていました(Ibid.)。ミドルトンは軍団司令部を通じてドイツ軍の後方地域における補給品の集積地や部隊が集中している地域に対する空爆も要請しています(Ibid.: 54)。
この戦闘が現代の研究者にとって興味深いのは、第8軍団隷下の3つの部隊が同一条件で攻撃を開始したにもかかわらず、それぞれの部隊の進撃速度に大きな違いがあったことです。スティーヴン・ビドルは、第82空挺師団が最も優れた能力を有していたと評価しています。その理由は、7月3日から7月7日までの戦闘において1時間あたりに占領できた面積が0.28平方キロメートルと他の部隊よりも大きく、この空間を確保するために部隊が被った損耗は564名であったと計算できるためです(Biddle 2007: 217)。ちなみに、第79歩兵師団は1時間たりに占領できた面積は0.22平方キロメートルであり、それと引き換えに失った人員は841名でした。90歩兵師団は、1時間あたりに占領できた面積は0.17平方キロメートルであり、それと引き換えに失った人員は1035名でした。
戦術的観点で注目すべきは、第82空挺師団は、第79歩兵師団に比べて10%、第90歩兵師団に比べて24%も人員が少なく、かつ配備された装備の数でも不利な条件であったということです。ビドルは、第82空挺師団は、厳しい基準で人員を選抜し、集中的な訓練を行った部隊であり、海外に派遣されてからも6か月にわたって部隊単位の訓練を重ねていたことを指摘しています。ラ・エ・デュ・ピュイの戦闘の前にも、3か月間にわたる実戦の経験がありました。しかし、第90歩兵師団と第79歩兵師団は海外で部隊単位の訓練を行っておらず、実戦の経験がわずかで、人事上の異動が頻繁でした。第90歩兵師団はこの戦闘で最大の損耗を出した部隊でしたが、演習場における検閲でも評価は常に劣悪でした(Ibid.: 217)。
この戦例は経験や訓練といった無形の要素がいかに重要であるかを示しており、また検閲における評価の内容も部隊の戦闘力を予測する上で十分に考慮に値することも伺われます。その後、第8軍団は同年7月25日に開始されるコブラ作戦にも参加し、ドイツ軍の防御を打ち破ることに貢献しています。