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あるソ連の従軍記者が見たスターリングラードの戦い(1942-1943)
スターリングラードの戦いは1942年6月から1943年2月までヴォルガ川の西岸に位置するスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)で続いた戦闘の一つであり、独ソ戦でソ連軍がドイツ軍に対して決定的な勝利を収めました。ソ連で優れた文学作品を書き残したユダヤ人作家ヴァシリー・グロスマンは従軍記者として当時この戦闘を取材しているのですが、その取材ノートには史料として大きな価値があります。
ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンは1942年5月の時点でドイツ軍が戦線の南方で新たな攻勢を発起する計画があることを裏付ける情報には接していたのですが、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの攻撃目標はモスクワのはずだという自分の判断に固執していました。
そのため、6月末にドイツ軍が実際に南方で攻勢を発起し、スターリングラードが危険であることが明らかになると、スターリンは慌てて防衛の準備を発令しました(ビーヴァー『赤軍記者グロースマン』190-191頁)。7月28日には「一歩も退くな」という有名な作戦命令227号を下達しますが、現地では準備不足から大きな混乱が起きていました。
グロスマンの取材ノートには戦意を喪失した兵士の脱走や自傷などの「異常事案」が相次いで起きていたことが記録されています。この「異常事案」は、国家への反逆的行為を表す用語であり、これを起こした兵士は銃殺隊で処刑されました。ただ、現地の部隊では軍服が著しく不足していたため、銃殺執行の直前に被処刑者の軍服を脱がせ、その後で処刑することが慣例となっていました(同上、224頁)。処刑された兵士の数は戦闘が続いていた5か月間で1万3500名になりましたが、戦闘が始まった初期に集中的に発生していました(同上)。
これ以外にもグロスマンは現地で防御部隊の連携が円滑にいっていない事例を数多く記録しています。
「1 飛行隊が3日間にわたって味方の戦車隊を空爆したケース。電報が命令系統のさまざまな段階を通過するのに3日かかった。
2 包囲下の諸師団に食料を空中投下したが、経理部はそれを支給しようとしなかった。受領書にサインすべき人物がいないという理由で。
3 偵察隊長はウォッカ半リットル支給の許可をもらえず、必要なシルクの生地(価格80ルーブル50コペイカ)も支給してもらえない。
4 離陸の通知が入ってから、爆撃要請を出す。
5 1機が炎上。パイロットは機体を救おうとしてパラシュート降下せず、燃える機をあやつって飛行場へたどりついた。火に包まれてズボンも燃えてしまったが、経理部は使用期限が切れていないという理由で新品の支給を拒否。煩雑な手続きに数日を費やした」
ドイツ軍の第6軍がスターリングラード市内に突入を開始したのは9月13日未明からで街中心部に進入を許しました。敵の前進を知ったスターリンは第13親衛師団にヴォルガ川を渡河し、ドイツ軍の進撃を阻止するように命じましたが、この命令の実行には大きな危険を伴いました。グロスマンは、9月14日にこの渡河を現地で取材しましたが、多くの兵士は敵火の下でヴォルガ川を渡河する危険におびえていたことを書き残しています。
「伝馬船、フェリー、発動機船に乗り込んだ兵士らは無言だった。いやはや、息も詰まる濃密な地上の砂ほこりが、なんで川面には立ちこめてくれないのか! 発煙筒の青っぽい煙は、なんであんなに透き通って薄いのか! 全員が不安にかられてあちこちを見回し、空を見上げる。
『急降下してきやがる、ちくしょうめ!』とだれかがさけんだ。
伝馬船から50メートルほどの水面に細く高い青白色の水柱が立つ。その直後、もっと近くに2本目の水柱が立っては崩れる。続いて3本目。迫撃砲弾が水面で炸裂し、ヴォルガは傷のような泡でおおわれ、破片が舷側にあたって音を立て、負傷者がまるで負傷を隠すかのような小声でさけんだ。たちまち小銃弾が水面をヒュルヒュルと音を立てて飛来しはじめた。
悲惨な事態も生じた。小型フェリーに大口径迫撃砲弾が命中、船は炎上し、黒煙につつまれた。爆発音が聞こえ、まるでこの轟音が生み出したかのような長く尾をひく人間の悲鳴が響きわたった。その直後、水面に揺れる木片につかまって泳ぐ兵士たちの緑色の鉄帽を数千人が目撃した」
ドイツ軍の部隊はスターリングラードの船着場を視界に収める高地のママーエフ・クルガーンを占領していました。そのため、多くのソ連兵が遮蔽がない1300メートルを敵火の中で船で渡河することを余儀なくされ、多大な損害を出しました。
グロスマンは、こうした厳しい環境にありながらも、着実にスターリングラードの戦闘に適応していく兵士の様子を記録し、感嘆しています。9月27日にドイツ軍は再度大規模な攻撃を仕掛け、スターリングラード北部の工場地帯に前進し、激しい市街戦になりました。
グロースマンはスターリングラードの防御戦闘を指揮していた第62軍のワシーリー・チュイコフ司令官への取材で敵への印象を質問し、「まあ、たいしたことはない。だが軍紀厳正だという点は認めねばならん。命令には絶対服従」という落ち着いた回答を得ています(274頁)。
チュイコフの参謀長もスターリングラードの戦況に関してはさほど悲観的ではありませんでしたが、それは1941年のセヴァストポリ攻囲の経験があったためでした。「あそこじゃ、わが兵力は減る一方だったが、ここじゃ補充があった。共通点もたくさんある。ときには同じ戦闘の続きをやっているんじゃないかと思ったこともある。しかし、セヴァストーポリとはちがって、ここでは絶体絶命という感覚はなかった」と述べていました(同上)。
グロスマンは前線の部隊でソ連兵がドイツ兵とどのように戦っていたのかについても調べています。スターリングラードの市街戦ではソ連兵は極めて近い距離で敵と交戦していましたが、グロスマンはその様子を間近で観察し、詳細に記録しています。
「1日のうちに何回か、とつぜんドイツ軍の火砲、迫撃砲が沈黙し、異常な静けさがやってくる。すると監視兵が「敵襲警戒」とさけび、前哨隊員は火炎びんをつかみ、対戦車班員はズックの弾薬嚢を開き、自動小銃兵は各自のPPSh(シパーギン機関短銃)をてのひらで拭う。この短時間のしじまは攻撃の前触れなのだ。
まもなく数百のキャタピラの騒音とエンジンの低いうなりが戦車の前進開始を告げ、中尉がどなる。「みんな、注意しろ! 左から歩兵接近中」。ときには敵兵が30~40メートルの至近距離に迫り、シベリア兵たちがそいつらの泥まみれの顔やボロボロの外套を見たり、のどからしぼり出すようなさけび越えを耳にしたりすることもあった」
こうした戦闘が続く中でも、兵士には生活がありました。砲弾を逃れるために地下に構築された居住壕には近場で集められてきた家具があり、足りないものについては工作していました。
「ランプやストーブの煙突は砲弾の薬莢。脚つきグラスと並んで卓上に置かれている小さなグラスは弾頭。対戦車榴弾のわきには、「妻よ夫を怒らせるな」と書かれた陶製の灰皿。司令部の指揮壕の巨大なつや消し電球。チュイコーフは笑って言う。「シャンデリアだってあるぞ。なにせ、ここは都会なんだから」」
グロスマンはソ連の宣伝機関が求める英雄的な美談を記事にしましたが、彼自身の戦争に対する見方は冷静であり、当局が好まないことであっても記録に残すことに強い義務感を覚えていました。独ソ戦の記録として貴重なだけでなく、戦争によって日常を奪われた人々がどのような感覚でこの現実を受け止めていたのかを探る上でも興味深い資料だと思います。
参考文献
アントニー・ビーヴァー『赤軍記者グロースマン』川上洸訳、白水社、2007年(2024年新版)
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