論文紹介 なぜ交渉で嘘をつく技術が必要なのか?
政治学では、権力者が情報を操作し、人々の認識を欺く技術について古くから何度も議論されてきました。最も古い例としては、古代ギリシアの哲学者だったプラトンが、指導者が人々にそれぞれの役目を果たさせ、国内の統一を維持するために用いる嘘を「高貴な嘘」と呼び、その有益さを強調したことが挙げられるでしょう。
現代の研究者の例としてはモーリス・デュヴェルジェが、政治家の自らの真の政治的立場を隠すことで、政治知識に疎い有権者の票を集めようとする偽装の技術について議論しています(政治家は可能な限り多くの支持者を集めるために、自分の政治的目的を偽装することがある)。
私たちの常識では、嘘をつくことは基本的に悪いことであり、そのようなことをしている人々は信用を失うとされていますが、これは必ずしも正しい認識ではありません。交渉において嘘をつく人々は、そうでない人々よりも信頼されやすいことを裏付けるような組織心理学の研究があります。
Gaspar, J. P., Methasani, R., & Schweitzer, M. (2019). Fifty shades of deception: Characteristics and consequences of lying in negotiations. Academy of Management Perspectives, 33(1), 62-81. https://doi.org/10.5465/amp.2017.0047
この論文は主に民間の経済主体がとる交渉行動における嘘、つまり欺瞞の効果を検討したものであり、欺瞞効果モデル(Deception Consequence Model)という理論を提案し、これまでの欺瞞に関する研究成果を再検討しています。
欺瞞効果モデルでは欺瞞の多様さを考慮します。つまり、(1)意図、(2)内容、(3)行為で欺瞞を細かく区分し、どのようにして人々が嘘をつくのかを包括的に捉えようとしています。著者らは、欺瞞の本質は相手を誤解させる意図を持って行われることであり、必ずしも非倫理的な欺瞞とは言い切れないものもあるという立場で議論を進めています。
このような視点から社会における交渉を観察すると、欺瞞が一般的な現象であり、交渉の当事者は常に相手に対してどの程度正直でいるべきか難しい決断を迫られていることが見えてきます。これまでの調査では欺瞞は社会的に有害なものであると想定されがちでした。そのため、研究も欺瞞が使われやすい交渉状況の特徴を特定しようとする傾向がありました。そのため、交渉の中で欺瞞が使われた結果に焦点を合わせたものは多くないという限界があったと著者らは主張しています。
例えば、交渉の当事者は、大きな利害をめぐって交渉している場合、相手に提供できる情報が操作しやすい内容である場合に欺瞞を用いる確率が高まることが分かっています。代替的な選択肢を確保するため、別の交渉相手と取引できる可能性がある場合にも、欺瞞が用いられる確率は高まります。さらに怒りの感情を経験した当事者は、そうでない当事者よりも欺瞞を用いやすいことも分かっており、また相互理解が貧弱な状態でも欺瞞が使用される確率は高まります。これらはいずれも当事者が交渉で欺瞞を使用しやすい条件を特定する上で有益ですが、その効果を示すものではなく、特に向社会的な欺瞞の効果についてはまだ不明な点が多く残されています。
著者らは、欺瞞を区分する上で意図に着目し、自己利益的な欺瞞と向社会的な欺瞞の違いに注目することの重要性を論じています。著者らは社会の中で行われる交渉上の欺瞞のかなりの部分が向社会的な欺瞞に分類できると指摘しており、「あなたの評判はよく耳にしていますよ」「素敵なスーツを着ていますね」などの決まり文句も、向社会的な欺瞞の一種と見なせます。ある交渉を伴う社会実験の結果では、参加者の33%が相手の利得を増やすために向社会的な欺瞞を使用したことが報告されており、欺瞞全般を自己利益的な欺瞞と見なすべきではないことを裏付けています。一貫して向社会的な行動をとる人物がある程度の割合で存在することは、欺瞞に対して脆弱なターゲットが社会の各方面に絶えず潜在することを示唆しているとも考えられるでしょう。
次に欺瞞のカテゴリーとして内容に注目すると、感情的な欺瞞と情報的な欺瞞を区別することができます。交渉において当事者が示す感情の種類や強度は相手の認知に影響を及ぼし、その情報処理にも作用するため、当事者としては自分が提示する感情的内容を偽り、相手に誤認させることを戦略的に行うことがあります。情報的な欺瞞は、意図的に誤った情報を提供することですが、例えば相手が早く契約を成立させたいことを知った上で、こちらに契約を遅らせなければならない事情があることを伝え、相手から新たな譲歩を引き出す技術がこれに該当します。交渉の落としどころを操作するため、あえて予算の上限について間違った情報を伝えることもあるでしょう。ただし、著者らは情報的な欺瞞は感情的な欺瞞に比べると少ないと考えています。これは欺瞞を仕掛けるときに、感情的な欺瞞は情報的な欺瞞よりも幅広い選択肢を与えてくれるためです。相手に好意を持っているような身振りを示すことや、失望したようなしぐさを見せることによって、相手の態度を自分にとって好ましいものに操作することは、交渉において一般的に行われています。
行為に着目した場合、欺瞞は作為的な欺瞞と不作為的な欺瞞に分けることができます。強力な欺瞞の一つとして知られているのは、積極的に相手を騙そうとするのではなく、相手が誤解している状態に対して沈黙を保つという欺瞞です。ある交渉で深刻な欠陥がある商品を売りつける必要があるとき、その欠陥部分について積極的に間違った情報を提供することもできますが(deception by commissions)、その部分について質問されたときに話題をそらして具体的な情報を提供しない欺瞞、省略による嘘(deception by omission)という行為もあります。あるいは、真実ではあるものの意図的に曖昧にした情報を用いることで、欠陥がないかのように相手に誤解させるパルタリング(paltering)という技法もあります。
このような広い視野で交渉における欺瞞を捉えると、欺瞞が交渉においてもたらす影響を評価することが可能になります。これまでの研究成果を見直すと、その嘘が暴露されないことが前提ではあるものの、自己利益的な欺瞞を頻繁に使用している人物は、正直さを重視する人物に比べて、日頃から優れた交渉結果を得ていることが確認できます。ただし、この欺瞞は絶妙なバランスに基づいて設計されなければならず、交渉において成功するためには、交渉の相手を誤解させる能力と誤解させない能力の両方を併せ持っている必要があると論じています。この知見を踏まえれば、正直さを追求し、決して嘘をつかないように心がけている人々に交渉を任せることは適切であるとはいえないでしょう。
ただし、自己利益的な欺瞞を用いる人物は、嘘をついていることが露呈したときに、正直な人物よりもパフォーマンスが大きく低下することも指摘しておかなければなりません。交渉の相手は特に自己利益的な欺瞞を使用していることを察知すると、相手により厳しい条件を突き付ける傾向があります。欺瞞が失敗したときの代償は決して小さなものではないため、同一人物との交渉の過程が長期に及ぶ場合、大きな損失を被る可能性があります。ここで注意すべきは、欺瞞を探知できた交渉の相手は、欺瞞を探知できなかった場合よりもさらにパフォーマンスを低下させることがあるというものです。欺瞞に気が付き、騙されずにすんだからといって、そのことから追加の利益が得られることはほとんどないと著者らは指摘しています。この点についてはまだ十分に研究が進んでいませんが、著者らは欺瞞を探知した人は不安を募らせ、それが自分の利益を少なくするような意思決定を後押しする効果があるのではないかと著者らは推測しています。
著者らは将来の研究の方向性についてさまざまな提案を出していますが、この記事ではその部分は割愛することにします。最後に強調しておきたいのは、交渉の道具としての欺瞞は場合によっては有効であり、常に正直でいるということは、交渉において必ずしも美徳であるとはいえないということです。
確かに、欺瞞が失敗した事例と比較するのであれば、欺瞞を一切使用しない交渉当事者は相対的に優位に立てるかもしれませんが、より現実的な戦略は欺瞞が複雑で多面的なものであることを理解し、相手に気づかれない範囲でそれらを柔軟に使用することでしょう。欺瞞の利害得失のバランスを図ることが交渉のパフォーマンスを向上させることに繋がります。交渉の教育では、誠実さや信頼の効果を強調することが多いと思いますが、少なくとも欺瞞を一切使用しないという原則は行き過ぎであり、交渉のパフォーマンスを大幅に低下させる原因になると私は考えます。