ベトナム戦争で米軍が冒した犯罪を暴き出す『動くものはすべて殺せ』(2013)の紹介
2013年、ベトナム戦争でアメリカ軍の戦争犯罪に関する包括的な調査の結果をまとめた著作『動くものはすべて殺せ』が刊行されました。著者のニック・タースはコロンビア大学で博士論文を執筆する過程でこのテーマに取り組み、1968年のソンミ村虐殺事件の後で設置されたベトナム戦争犯罪作業部会の報告書を足掛かりに関係者への面接調査を進めています。
ベトナム戦争犯罪作業部会は国防総省が内密に設置したワーキング・グループであり、さまざまな戦争犯罪の報告や告発に関する資料を集約していました。著者はこの組織が残した史料を調査し、当事者への面接調査も行い、ベトナムにも赴いて生存者から話を聞き取りました。一連の調査を踏まえ、アメリカ軍の戦争犯罪は特異な個人や少数の集団が引き起こしたものではなく、多くの事件が組織的に隠蔽されたことを明らかにしています。
ニック・タース著、布施由紀子訳『動くものはすべて殺せ:アメリカ兵はベトナムで何をしたか』みすず書房、初版2015年、新装版2023年
1965年、アメリカは南ベトナムに地上部隊を投入し、本格的な軍事的介入を開始しました。このとき、アメリカ軍の小部隊の指揮官を対象に行ったアンケート調査で国際人道法である1949年ジュネーヴ諸条約を「なんとなく知っている」者さえ、ほとんどいなかったことが記録されています(39頁)。この結果は1967年に陸軍情報学校で下級士官を対象にした調査でも再現されており、同年の陸軍士官候補生学校では卒業を控えた士官候補生に至っては戦争捕虜に関する適切な取り扱いに関して講習を受けたにもかかわらず、半数が情報を得るために捕虜を虐待すると回答しました(同上)。
1969年に陸軍の士官を対象にした調査でも国際人道法に対する認識が改善していないことが確認できます。この調査では60%の回答者が情報を得るために拷問や脅迫を行うと述べており(同上)、中尉、少尉、准尉の25%はスパイ行為やブービートラップの設置に関わった民間人を捕らえれば、その場で処刑できると武力紛争法の規制を誤解していたことも判明しました(同上、39-40頁)。こうした指揮官の下で戦っていた兵士の多くは18歳から20歳の若者であり、新兵訓練で戦争法規に関する講習を1時間程度受けていたにすぎませんでした。
現地のアメリカ兵の間ではベトナムで暮らす人々を「グーク」という人種差別的な蔑称で呼ぶことが一般的であり、そのため文化的な認識は極めて貧弱な状態でした。当時、アメリカ軍ではベトナム人に危害を加えたとしても、寛大に対応されるべきという『たかがグーク』の習わし(Mere Gook Rule)という慣習があり、兵士の間では「グーク」を可能な限り早期に皆殺しにすれば、自分たちは早く帰国できるという言説さえありました(62頁)。
士官は公の場で「グーク」という言葉を使わなかったものの、人種差別的な偏見を持っていたことも指摘されています。南ベトナム軍事援助司令部(Military Assistance Command, Vietnam)のウィリアム・ウェストモーランド司令官は対談の場で「東洋人は、西洋の人間ほどには、命に重きを置かない。東洋では、命はいくらでもああって、安っぽいものと考えられていて、東洋の哲学者も、命はたいせつではないと言っている」と述べています(同上)。ベトナム人の生命や財産が損なわれることはアメリカ人にとって重大な問題とは見なされておらず、積極的に戦争犯罪を追求しようとはしませんでした。
ウェストモーランド司令官は敵に可能な限り大きな損害を与えるため、南ベトナム戦域で索敵殲滅(search and destroy)と呼ばれる方法で敵ゲリラに対処しましたが、これは現地において手当たり次第に村落を破壊して回ることに繋がりました。当時、作戦に参加した第四歩兵師団のある士官は「家を見つけたらかならず、中を捜索した上で焼き払いました。農民ひとりが暮らしていた家だろうが、村全体だろうが、―ともかく全部焼いてしまいました」と当時の作戦の実相を回想しています(65頁)。
こうした作戦環境でベトナムの民間人が自分の命を守ることは極めて難しいことでした。当時、ベトナム人の間では自分が非戦闘員であり、ゲリラではないことを明らかにするためには、アメリカ軍の兵士が現れても、決して逃げ出してはならないと考えていました。事実、アメリカ軍の兵士から逃げようとすると、その行いがゲリラであることの証拠とされてしまい、銃撃される事件がしばしば起きていました。著者はこのような実態を示すある史料を紹介しています。
アメリカ軍の兵士の中には、規則に基づいた武器を使用を正当化するため、わざとベトナム人を怯えさせるような方法で射撃を行い、逃げ出すように仕向けてから殺害することもありました。サイゴン郊外でヘリコプターに乗り込んでいたドアガン射手のウィリアム・パターソンは民間人を殺害した容疑で陸軍犯罪捜査官の調査を受けましたが、その際には「武器を持たない民間人らしい者を見かけたら、できっるだけその近くを狙って射つことになっていました。相手が逃げだしたら殺害してもよい、とされていたのです」と証言しています(72-3頁)。こうした慣行があったため、戦闘地域で民間人が安全を確保しながら生活することは極めて困難な状態でした。
ウェストモーランド司令官はベトナム人の住民を保護する名目でサイゴン政府の統制の下に置かれた地区へ移住させる平定作戦(pacification)を実施していますが、これはゲリラと住民を隔離することを目的としたものでした。戦地で住民を強制移住させることは戦争犯罪にあたるため、アメリカ軍は公式には作戦が住民を強制的に移住させるために実施されたものではなかったと強調していましたが、ウェストモーランドは1965年の演説において「今日まで、農民は三とおりの道を選ぶことができた。その場に踏みとどまり、本能に従って土地を離れず、祖先の墓のそばで暮らすか。または、政府の統制下にある地域へ移るか、あるいはベトコンに加わるか。いまや踏みとどまる道を選んだ者は、さらなる危険を覚悟しなければならない。・・・米軍の作戦は、この第一の選択肢が不可能になるように計画されたからだ」と述べています(同上、79頁)。
こうした強制移住で多くの農民は財産を失い、劣悪な生活環境に苦しめられました。クアンナム省の村で起きた事例では、まず航空機が村落にビラをまき、村が自由射撃区域になる予定であることを通知し、避難のために24時間の猶予時間が与えられました(82頁)。村民だったグエン・ヴァン・タムは運よく地下壕に避難できましたが、タムの父親は水田で農作業していたことで命を落としています(同上、83頁)。数日後、アメリカ軍の地上部隊が村落を占領し、村民全員に退去を命じて家屋に放火し、家畜として飼育されていた水牛を射殺しました(同上)。村民はダナン市の難民キャンプに収容されましたが、収容施設では水、食料が不足しており、医療を受けることもできず、仕事もありませんでした(同上)。当時、アメリカ会計監査委員が派遣した調査団は収容所の住民の様子を次のように報告しています。
戦争によって農村部から都市部への人口の流入が加速すると、首都サイゴンでホームレスが急増しました。著者の調査によれば、1971年の都市人口の4分の3は他の地域から流入した人々で占められるようになっていました(173-4頁)。貧困は深刻な状態にあり、多くの難民は生活を立て直そうとしましたが、戦争による供給の混乱でインフレーションが進んだため、ベトナムで主食のコメの価格は1964年から1972年までに10000%以上に上昇しました(175頁)。この時期のサイゴンでホームレスが増加したのは、財産を失って流入した人々を吸収できるだけの雇用が都市部になかったためでしたが、そうした地域では兵士が暴力的な事件を起こす例がありました(188頁)。
1968年にウェストモーランドの後任となったクレイトン・エイブラムズ司令官は、兵士が路上で気まぐれにベトナム人に危害を加えている状況に関して繰り返し苦言を呈していましたが、兵士がベトナム人に投石や手榴弾を投げる事件は起きており、たまたま道に立っていた人々や通りかかった自動車、住宅が銃撃されることもありました(同上)。1969年4月、12歳の少年がアメリカ軍の基地のゴミ捨て場をあさっていたところ、第82師団の兵士がその場で少年を射殺する事件が起きています(191頁)。1970年7月3日、海兵隊のある下士官が車両で走行中に部下から「度胸がない」とからかわれ、道路わきに向けて銃を射撃したところ、道路脇を歩いていた女性を死亡させました(189頁)。
1968年のソンミ村で起きた虐殺事件は、アメリカ軍の規律低下を表出された事件であったと著者は解釈しています。この事件は発生当初、陸軍が隠蔽していたので、主要メディアはすぐには取り上げなかったものの、シーモア・ハーシュの調査報道などで社会の関心が高まると、政府も広報対応を余儀なくされました(269-270頁)。1969年11月にウィリアム・ピアーズ中将はこの問題について陸軍内部で行われた隠蔽工作を調査しましたが、ベトナムでアメリカ軍が日常的に戦争犯罪を起こしている状況に関しては陸軍が公表を阻止しました(274頁)。後に陸軍犯罪捜査司令部長のヘンリー・タフツ大佐は、陸軍の参謀総長に就任していたウェストモーランドが隠蔽工作を図っていたことを証言しています(同上)。
1970年以降、アメリカ軍の戦争犯罪に関する記事の掲載は一過性の事象ではなくなっていきました。1971年にはウェストモーランド参謀総長に一連の戦争犯罪に対して責任があるという見方が出されるようになりました(同上、277頁)。ベトナムからの帰還兵は数百人単位でベトナムの戦争犯罪に関する証言を行い、反戦ベトナム帰還兵の会などの反戦運動が組織化されました(同上、282頁)。こうした政治状況を背景として、ダニエル・エルズバーグが国防総省の機密文書であった『ペンタゴン・ペーパーズ』の内容を1971年に『ニューヨーク・タイムズ』誌上で暴露する事件が起こり、ベトナム戦争に関する実態が政府の公式見解とかけ離れたものであることが明らかにされています(同上、287頁)。
ただし、軍人の法的責任を追及することは政治的に困難でした。陸軍犯罪捜査司令部は、ソンミ村虐殺事件で500人以上の民間人を殺害した戦争犯罪の責任を追及しようとしましたが、国防総省は除隊した軍人について審理はできないと主張しました(同上、288頁)。厳密には、大統領の承認があれば軍法会議を設置可能でしたが、当時のニクソン大統領は訴追手続きを承認しようとはしませんでした(同上、289頁)。1971年に有罪の判決を受け、終身刑を言い渡されたのは現地で指揮していた小隊長だけでした(同上、289頁)。彼は後に減刑され、1974年には仮釈放になっています。ウェストモーランドはベトナム戦争犯罪作業部会を通じて数百件の残虐行為の報告や告発を隠蔽することに成功しています。
ベトナム戦争におけるアメリカ軍の戦争犯罪が一般的に想像されているよりも広範かつ深刻なものであったと主張するだけでなく、戦争犯罪が政治的な理由から隠蔽される傾向にあることを浮き彫りにする意義がある著作ですが、欠点がないわけではありません。著者はベトナム戦争における不毛な作戦の責任の多くはウェストモーランドを中心とする上級司令部にあったと考えていますが、下級士官の行動についても厳しく批判を加えています。ただ、Ron Milamが『紳士の戦争ではない(Not a Gentleman’s War)』(2009)で検討したように、アメリカ軍の下級士官でも人種差別の問題を認識し、解決しようとしていた者はおり、軍事司法制度がベトナム人に対する戦争犯罪を常に黙認していたわけでもありませんでした。著者は残虐行為を非難する上でこうした側面を無視したり、軽視する傾向があることに留意しながら読まれるべき著作だと思います。