マキアヴェッリの政治学の背後には、数世紀に及ぶ思想の変化があった
イタリアのフィレンツェで行政官を務めたニッコロ・マキアヴェッリ(1469~1527)が書き残した古典的著作『君主論』(1532)は近代政治学の原点と位置付けることができる重要な業績です。この著作でマキアヴェッリは政治の世界には独特な社会法則が存在しており、それは宗教上の教えでは理解することができないものであると論じました。
彼の思想は西欧の政治思想にとって一つの転換点になったと見なされていますが、その背後には膨大な研究成果の蓄積があったと指摘する研究があります。
著者らはヨーロッパで経済発展に適した政治制度の形成が他の地域より早期に起きていた原因を説明する上で、君主への助言のために書かれた手引書、いわゆる君主の鑑(mirrors for princes)が参考になると考えました。先ほど述べたマキアヴェッリの『君主論』もこのジャンルに位置づけることが可能であり、その歴史は中世にまでさかのぼることができます。範囲を明確に定義することは難しいのですが、君主やその側近の態度や行動に関する助言を行うことを目的として書かれた書籍と著者らは定義しました。
調べた限り6世紀から17世紀までの間にヨーロッパでは少なくとも25冊の君主の鑑が書かれたことが確認されています。比較史の観点から見て興味深いのは、イスラム圏でも君主の鑑が書かれていることであり、8世紀から17世紀までに21冊の著作があったことが確認されています。著者らは異なる文化圏で書かれた君主の鑑の内容を(1)支配者の技術、(2)個人の徳目・習慣・関係、(3)宗教、(4)政治地誌・自然界の4種類のテーマに区分し、60種類のサブテーマを設けて、時代ごとにテーマごとの記述の割合がどれほど変化しているのかを定量的に比較しました。
著者らは西欧とイスラム圏で文化的な交流は非常に限定的であったにもかかわらず、調査対象の期間に君主の鑑として書かれた書物の平均的な内容に大きな違いがなかったことを強調しています。ただし、細かな時期に細分化した上で傾向の違いを見ると、西欧における君主の鑑では宗教に関する記述の割合が時間経過とともに減少していく傾向があるのに対して、イスラム圏では宗教に関する記述の割合は減少する傾向にはありませんでした。
もちろん、この調査は対象とする時期の長さに対してサンプルとしている文献の種類が少ないというデータの制約があるので注意しなければなりませんが、著者らの分析結果では12世紀から17世紀にかけて宗教関連の記述が顕著に減少する傾向を示しています。ここで著者らが宗教関連の記述として見なしているものには、神に対する君主の義務や、支配者と被支配者との関係に関する宗教的な意味合いに関する議論が含まれています。
西欧における君主の鑑の内容が12世紀以降に大きく変化した原因は何だったのでしょうか。この疑問に対して著者らは叙任権闘争と十字軍が影響を及ぼした可能性があると論じています。叙任権闘争とは、聖職者を任命する権限をめぐって発生したローマ・カトリック教会と神聖ローマ帝国などとの紛争です。この紛争を通じて君主は教会から独立した世俗的権威としての自覚を深めていったと著者らは考えています。十字軍は11世紀から13世紀にかけて8回にわたり行われた聖地エルサレムへの軍事遠征であり、この一連の軍事的活動を通じて西欧の君主は武力紛争を遂行するための政治制度を強化したとも考えられます。
いずれにしても、12世紀以降に君主の鑑から宗教的要素が減少していたことは、16世紀にマキアヴェッリが書いた『君主論』が西欧の政治思想の突然変異ではなかった可能性を裏付けています。この研究成果を踏まえるならば、中世の後期にかけて影響力を増しつつあった政治思想を受け継ぎ、政治を宗教から切り離す専門的な見地に到達していたと理解する必要があるでしょう。近代的な政治学の起源を探るためには、実はマキアヴェッリよりもはるか前の時代にさかのぼらなければならないのかもしれません。
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