論文紹介 80年代の日本で提案された北方前方防衛態勢はどのような戦略構想だったのか?
1979年12月、ソビエトはアフガニスタンに侵攻し、これを軍事占領したことによって、対米関係を急激に悪化させるという事件が起きました。アフガニスタンではソ連軍の占領支配に抵抗する部隊が組織され、アメリカなどがこれを支援しました。このために東西の対立が深まることになり、新冷戦と呼ばれる世界的な緊張状態が発生しています。
このとき日本は対米関係を強化し、西側の一員としてソ連の動きに対抗していますが、その際に自衛隊ではソ連を抑止するための戦略構想をめぐり、ある提案が出されています。これは北方前方防衛態勢と呼ばれたもので、通常戦力しか持たない日本としてソ連を封じ込める上で陸上自衛隊が主体となって海峡封鎖を行うというものでした。1984年にこの構想をまとめた論文を紹介します。著者の西村繁樹(1947-2019)は陸上自衛官であり、防衛学会佐伯賞を受賞しました。
西村繁樹「日本の防衛戦略を考える―グローバル・アプローチによる北方前方防衛論」『新防衛論集』12巻、1号、1984年、50-79頁
著者の議論の出発点となっているのは、ソ連軍が1980年代に積極的に戦力の増強を行っているという認識であり、通常戦力だけでなく、核戦力の増強も進められていることが考慮されていました。著者は具体的には以下の事象が重要な意味を持つと述べています。
4番目で目指しされているSS-20は論文が発表された後の1987年に米ソ間で成立した中距離核戦力全廃条約で規制された中距離核戦力です。このカテゴリーの核兵器は射程が500km(300マイル)から5,500km(3,400マイル)とされており、SS-20の射程は5,000kmと見積られていました。
SS-20は陸上機動が可能であるために固定されたサイロから発射する大陸間弾道ミサイルよりも捕捉が難しくなる核兵器であり、弾着の精度も高いと見なされていました。つまり、非戦闘員に大きな被害を与えることなく、戦域の基地や駐屯地を破壊し、部隊を撃破することが期待される核兵器であるといえます。抑止のためではなく、軍事的に使用することが前提となっている核兵器であるため、軍事関係者はその脅威を深刻に受け止めていました。ソ連軍は1977年からSS-20の配備を開始し、その数は1979年以降も増え続け、極東にも配備されるようになりました。
1979年12月に北大西洋条約機構理事会で加盟国に中距離核戦力を配備し、同時にソビエトとの軍備管理交渉を実施するという方針が決定しました。当時のアメリカ軍で陸上機動が可能な戦域核兵器としてはパーシング2がありましたが、その射程は1,800kmにすぎませんでした。新たに開発する陸上発射式の巡航ミサイルと組み合わせることで、戦域核兵器のギャップを埋めようとする試みもありました。ただ、軍備管理交渉が進展しなければ、いずれにしても抑止態勢がますます核兵器に依存する状態に繋がるという問題は残ります。ちなみに、アメリカ軍の潜水艦発射弾道ミサイルであるポラリスA3とポセイドンC3であれば、射程が4,600kmほどありましたが、ヨーロッパでは、その配備数は限られている状態でした。
こうした時代背景を踏まておくと、著者が提案した戦略の特徴がよく分かります。著者は極東におけるソ連軍の狙いは基本的に受動的、防衛的なものであって、外洋に進出していくというよりも、自国の近海に対して自在に海上戦力を展開できる態勢を確立することだと判断していました(同上、60頁)。ソ連軍がこのような戦略を策定してきた要因として考えられるのは、アメリカ海軍の潜水艦に搭載されたポラリスA3、ポセイドンC3の射程が延伸されたことが指摘されています。このように潜水艦に搭載された核兵器は、陸上配備の核兵器に比べて捕捉撃破が難しいため、ソ連軍としては自国の領土から少しでも遠ざけておいた方が有利になります。また、ソ連軍がアメリカ軍と核戦争になった場合、第二撃能力を担う原子力潜水艦を残存させる上でも近海を制することは重要な課題でした。
このような戦略構想は、「ゾーン・ディフェンス」と呼ばれており、複数の防衛圏を重ねることによって実施されると考えられます(同上)。著者は地理的環境から判断して、2重の防衛圏を構成するのではないかと推定しています。第一の内部防衛圏は本土防衛を目的としたものであり、これはオホーツク海を中心に構成した防衛圏です。その外側に設定される外延防衛圏はアメリカの部隊を締め出すことを目的とした補完的な防衛圏であり、ソビエトに対して海上封鎖が可能な太平洋の国、つまり日本の領土がここに組み込まれます(61頁)。これら二つの防衛圏を構成しようとするのであれば、ソ連軍は開戦と同時に太平洋に通じる津軽海峡と宗谷海峡を押さえることが必要だと考えられます。言い換えれば、北海道の北部をソ連軍の部隊が攻略できないのであれば、宗谷海峡を通じる海上交通路は保持できないため、ソ連軍は意図したゾーン・ディフェンスを実行することができなくなります。
国土防衛を任務とする自衛隊にとって北海道の北部がソ連軍の部隊に占領されることが受け入れ難いことは当然ですが、著者はこの問題を日本の国土防衛の視点だけで理解するべきではないとも主張しています。北海道を確実に防御することは、ソ連軍に対する抑止を確かなものにするという意味で抑止戦略的な側面があり、アメリカ軍が多正面で作戦を遂行する必要が生じたとしても、極東の部隊をヨーロッパ地域や中東地域に振り分けることができるような態勢を自衛隊として確立しておくことが重要だと著者は主張しています。
すでにヨーロッパ地域で中距離核戦力のギャップが問題となっていたことはすでに述べましたが、当時のアメリカ軍は中東地域でも問題を抱えており、戦力の不足に苦しんでいました。中東地域でソ連軍はアメリカ軍に対して相対的に優勢であり、もし侵攻すればペルシャ湾の湾岸諸国の原油生産を維持することが極めて厳しい見込みでした。これは戦争開始から早い段階でアメリカ軍が核エスカレーションに移行せざるを得ないことを意味するため、軍事的に重大なリスクであると著者は評価しています(同上、65-7頁)。
核兵器は通常兵器より実戦での使用に政治的に重い決断であるため、抑止の手段として信頼性で劣ります。著者は、アメリカ軍が核兵器の使用に依存せざるを得なくなれば、それだけソ連軍の侵攻を抑止することが難しくなるため、ソ連軍の動きに応じてアメリカ軍が通常戦力をヨーロッパ地域や中東地域に対して機動展開する「スイング戦略」を可能にする態勢を自衛隊として主体的に構築することで、グローバルにソ連軍を抑止することを重視していました(同上、68頁)。
日本は核保有国ではありませんが、その領土がソ連軍のゾーン・ディフェンスの一角を占めるという地理的な特性を踏まえ、そこを通常戦力でしっかり防御できれば、ソ連軍はアメリカ軍を相手に軍事行動をとることが難しくなると考えられます。これが著者が提案する「北方前方防衛態勢」の考え方であり、これに基づいて北海道の防衛を計画すべきだと主張しています(同上、75頁)。米ソ開戦の直後から自衛隊として陸上部隊で海峡を封鎖し、太平洋への出入口を制することを基本とする構想ですが、ここで問題となるのが北海道における航空優勢の獲得です。
当時のソ連軍の局地的な橋頭堡を確保する程度の揚陸能力しか持っていませんでしたが、いったん航空優勢を奪われてしまうと、空路で部隊や装備を送り込まれる危険はありました。自衛隊はソ連軍に対して航空戦力で数的に劣勢であり、その傾向は北海道の北部に近づくほど顕著でした。著者は、この問題についてアラスカ州のアメリカ軍部隊と連携を図ることの重要性を指摘しており、カムチャツカ半島に対して東側と南側から二つの正面で作戦を遂行することにより、ソ連空軍に北海道の航空優勢を奪われないようにするべきであると述べています(同上、76頁)。
著者は、後に「グローバルな抑止に貢献した日本の防衛戦略」と題する論稿の中で、自らが提案した構想を解説しています。この北方前方防衛態勢の着想を得たのは、1970年代にソ連軍が北海に向けて勢力拡大を図っていたとき、スカンディナビア半島のノルウェーが立たされた状況を分析する中であったと説明されています(西村、2009年、394-5頁)。
ノルウェーは北大西洋条約機構の加盟国であり、フィンランドやスウェーデンといった中立国の存在によってソ連軍に対する緩衝地帯を確保できるので、厳密な意味では日本と同じ環境とはいえませんが、ソ連軍の防衛圏の内側に領土が位置しているという点で類似性がありました。ソ連軍が北海道を獲得するのために対米開戦のリスクを冒すようなことは常識的に考えられませんが、ヨーロッパ地域や中東地域で米ソ開戦が避けがたい事態に陥った場合、ソ連軍は対米開戦と同時に、あるいはそれに先行して日本を攻撃するリスクがあると判断されていたようです
当時の議論を振り返り、著者はソ連軍が本当に北海道に着上陸してくるのかどうかという問題は重要だったが、この戦略構想の中心的な問題は別のところにあったと説明しています。なぜなら、この構想はソ連軍の意図に働きかける抑止のためのものであり、そのための手段として宗谷海峡と津軽海峡の沿岸部に局地的な防御の態勢を早期に作り出すことにあったためです(同上、403頁)。この点についての理解が得られず、ソ連軍が実際に着上陸を図るかどうかについて延々と議論が続いたと述べられています(同上)。抑止戦略について理解を得ることの難しさは今も昔も本質的に変わっていないと思います。
参考文献
西村繁樹「グローバルな抑止に貢献した日本の防衛戦略」『「戦略」の強化書』芙蓉書房出版、2009年、385-415頁