【映画解釈/考察】『ドライブ・マイ・カー』『ロスト・ドーター』「不条理演劇と記号的他者を通した物語的自己同一性による癒し」
『ロスト・ドーター』(2021)マギー・ギレンホール監督
『ドライブ・マイ・カー』(2021)濱口竜介監督
今回は、アカデミー賞2022脚色賞にノミネートされた2作品について考察を行います。
1 不条理演劇と実存主義
『ロスト・ドーター』は、エスリンの不条理演劇の言葉がはっきりと映画の中に出てきますが、『ロスト・ドーター』のストーリーの構成自体が、不条理演劇そのものになっています。突然安らぎを破壊する集団、突然降りだす雨、突然現れる訪問者、突然落ちてくる松ぼっくり、突然出現する虫などレダを襲う不条理が徹底して描かれています。このことからも、『ロスト・ドーター』の主題は、不条理にあるのは明らかです。
そこで、不条理について整理する必要があります。そもそも、エスリンの不条理演劇において、重要な論理的根拠になっている不条理とは、『ロスト・ドーター』の中にも一部引用が出てきますが、アルベール・カミュが唱えた哲学思想の支柱となる用語を指しています。不条理とは、人間の自己の行動を規定するような人間の本質や必然性は存在せず、人間の行動は偶然性によって成り立っているという理です。または、自己と世界(他者)の関係においても、必然的な法則や本質的なものは存在するわけではなく、偶然性によって成り立っている。よって人間はもともと、サルトルの言葉を借りれば、誠実なものにでも不誠実なものにでもなれる存在ということになります。
特に、突然現れる欲動が、不条理を生む存在であり、『ロスト・ドーター』では、虫が象徴的な記号になっています。そして、この欲動は、『ロスト・ドーター』では、レダやニナ、『ドライブ・マイ・カー』では、高槻や音、みさきの母などの人物に顕著に表れます。
そして、最も大事な点として挙げられるのは、この不条理は、人間(自己)が、自己と世界(他者)対して、本質や理性や必然性を求めようする行為によって生まれるものとしている点です。
『ロスト・ドーター』では、この不条理を生み出している原因が、母性になります。つまり、母性が人間の女性に備わった本質であるという多くの人たちが抱いている妄想によって、不条理が生み出され、レダのように女性が苦しんでいる実存を『ロスト・ドーター』では、クローズ・アップしているわけです。
『ドライブ・マイ・カー』の中で出てくる『ゴトーを待ちながら』は、不条理演劇の代表的な作品ですが、存在しない本質を待っていることから起こる不条理を表現しています。
2カミュの不条理の哲学とシーシュポスの神話
アルベール・カミュの不条理の理論的支柱になっているのが、評論『シーシュポスの神話』に出てくる、タイトルにもなっているシーシュポスの神話です。
シーシュポスは、ギリシャ神話に出てくるコリントの王であった人間です。シーシュポスは、知恵によって、神々を欺き、その罪として山頂に岩を運び続けることになります。ここで問題なのが、山頂まで来ると必ず、岩が落ちていき、また最初から岩を運ぶことといった行動を永遠に繰り返している点です。必ず落ちるということが分かっているのに、なぜそれでも山頂に繰り返し運ぶのかという問題です。カミュは、シーシュポスは、神々を欺く知恵者であり、罰を逃れることができるにも関わらず、運び続けるのは。生きることが不条理であることを知っているからだと、カミュは主張します。
これは、人間が生きていくためには、世界が不条理で成り立っていて、本質や必然性がないと分かっていても、それが存在するかのように行動しなければならない存在であることを表象しています。
『ドライブ・マイ・カー』にクライマックスとして出てくる『ワーニャ伯父さん』の最後の場面で、ソーニャがワーニャ伯父さんに語りかけるのがまさにこれに当たります。たとえ、世の中が不条理で、報われなくても、世の中の人のために働き続けましょうと呼びかけます。これは、人間が不条理を受け入れながらも、それでも神話=物語が必要であるを示しています。
そして、家福が、感情を抑えて朗読を繰り返しさせる理由が、ここにあるわけです。それは、不条理な世界に打ちのめされて、感情を失うことで、不条理を受け入れているからです。
『ロスト・ドーター』では、ラストでは子どもを捨てた罪=子どもの人形を盗んだ罪で、子宮を刺される罰を受けた後、海岸で倒れ、朝になってから目を覚まします。そこに、娘から電話が掛かってきて、手にはネーブルがあります。それと共にネーブルを子どもたちと蛇の皮のように剝く回想シーンが流れ、レダは笑みを浮かべたところで映画が終わっています。ヤスパースのいう限界状況の中で、レダは、世界が不条理であること身をもって確信するわけですが、それでもなお、子どもの元に戻った時と同じように、ネーブルの皮=へその緒が象徴する、母性の神話=物語によって、一時の安らぎを得るのです。
そこで、なぜ、人は、世界が不条理であることを知っていても、それでもなお、物語を必要とするのかというのが問題になります。
3リクールの物語的自己同一性と他者
ここで、一つ手掛かりになるのが、『ロスト・ドーター』の中に出てくる、フランス哲学者のポール・リクールの思想です。リクールも、『意志の哲学』において、人間の行動が、偶然性を伴うものであり、それゆえ過ちやすいものであることに言及しています。その根拠として、意志の決定において、理性的な動機のほかに、身体を伴った欲求や情動といった非意志的なもの影響を受けることを挙げています。このことは、意志(意識)の主体である自己が、常に、非意志(無意識)である欲望に脅かされていて、自己そのものが危うい存在であることを意味します。
『ロスト・ドーター』では、レダの母親として要求される行動に対して、女性としての欲求、知的欲求、社会的欲求などが偶発的に次々と襲いかかり、その限界状況の中で、子どもたちから一時的に逃走してしまいます。
また、『ドライブ・マイ・カー』では、家福の妻である音、俳優の高槻、みさきの母親たちが、非意志(無意識)に乗っ取られやすい、まさに不条理な存在として描かれています。
この危うい自己をもつ人間が、それを克服する重要な手段として物語があるとリクールは主張します。
そして、『時間と物語』で歴史について分析する中で、物語ることによって自己同一性を確立する物語的自己同一性という概念を提示しています。
その物語的自己同一性を確立する方法として、リクールは、『他者のような自己自身』で、他者との出会いが必要だと述べています。つまり、私は何者かを語るときに、客観的に認識するためには、他者の助けが必要であるということです。
『ロスト・ドーター』においては、レダは、自分の若いころの境遇に似たニナを通して自分語りを始めます。人形を盗んだのも、偶然性が伴った行為ですが、自分と同じ境遇を再現しようという意識が働いたと考えられます
『ドライブ・マイ・カー』においては、脚本家の音は、夫の家福の口述を通して執筆を行い、家福は音の声を相手にして役作りを行う夫婦です。
そして、この物語のプロットの支柱になっているのが、タイトルにもなっているドライヴです。
車内というのは極めてプライベートな空間で、家福は最初、他人が自分の車(マイ・カー)を運転することを拒みます。
しかし、みさきをそこに迎え入れ、語り合うことで、家福にとっての音をやっと見つけることができます。また、逆に、みさきにとっての母親も、見つけることになります。
そして、『ドライブ・マイ・カー』の中でもう一人車に乗る人物が高槻です。高槻を通して語られる音を通して、家福にとっての音を再構築します。
4言語の創造性による物語の創出と困難な赦し
そして最も大事なことは、物語による自己同一性の獲得が、決して本質を知ることではない点です。
前述の通り、そもそも、実存は、偶然性の上に成り立っており、本質は存在しないからです。
だから、人は、他者を通して、できるだけ客観的に、本質的なようなもの=神話(物語)を創造することによって、各々が一時の癒やし=ホスピタリティを得る行為をし続けていると解釈することができます。。
『ロスト・ドーター』では、前述のとおり、ネーブルを通して母性をめぐる自分語り(物語)を完結させ、ひと時の安寧を得ます。
また、『ワーニャ伯父さん』では、ソーニャが、不条理な世界で苦しみながらも、他人のために働き続けたという物語を受け入れようとワーニャ伯父さんに呼びかけることで、ひと時の安寧をもたらそうとします。
『ドライブ・マイ・カー』の脚本がすごいのは、『ゴトーを待ちながら』を冒頭に、『ワーニャ伯父さん』を最後に持ってきている点です。
これは、不条理を提示するのみの世界から、不条理を受け入れて新たな自己物語を創出する世界に移行することで救いが提示されます。
リクールは、特に、言語の創造性の力を重要視していて、特に、『生きた隠喩』の中で、隠喩=詩的表現による言語の創造性を最大に評価しています。これは、主語と異なる属性の述語が衝突することで世界の新たな一面を開示させることができるという理由からです。
『ロスト・ドーター』では、レダは、イェイツなどの詩人の研究者・翻訳家という設定になっています。
そして、『ドライブ・マイ・カー』と『ロスト・ドーター』に共通するのが、異なる言語の衝突です。これは、先ほどの他者との出会いや言語による異なる属性の衝突という条件を満たしています。
『ロスト・ドーター』では、レダは、英語で書かれたイェイツの詩をイタリア語に翻訳する作業をしています。
『ドライブ・マイ・カー』の『ワーニャ伯父さん』では、手話を含めた、多言語で行うことで、新たな世界を創造しています。
そして、『ドライブ・マイ・カー』のラストでは、みさきは、家福の車と共に、違う言語の国で、新たな物語を、スタートさせています。
最後に。もう一つ人々が物語る理由を挙げておく必要があると思います。
それはリクールいわく、歴史(物語)を求めるのは、根底に「困難な赦し」への渇望があるというものです。『ロスト・ドーター』では、レダは子供たちをかつて捨てたとという罪悪感、『ドライブ・マイ・カー』では、家福は音を直視することを避けたために音を救えなかったという罪悪感が、同様にみさきが母親を救わなかったという罪悪感が2つの作品のストーリーを紡ぎだしています。付け足すと高槻が、音について語るのも罪を犯した後で、本当に両作品とも脚本がよく練られています。
5 他者を通しての物語自己同一性による癒しと2020年代の映画の潮流
2010年代以降、民主主義・自由社会の限界が顕在化したことで、21世紀に対する幻想的な期待が崩壊し、いつの時代も不条理であることを再認識させられる時代背景の中で、これらの2作品を含むアカデミー賞ノミネート作品がほとんどが癒しを求めたものであったのは偶然ではないはずです。
これは、言語(文学)や演劇や映画などの記号的な他者を通した疑似体験によって、物語的自己同一性の創造することが、不条理な世界を生きるために必要な癒しであることを再認識させてくれます。
しばらくは、この流れのなかで、劇的な描写を必要としない、誰もが何かしらの共感性を有する半自伝的な映画の価値もますます再評価されていくのではないかと思います。
【過去の関連記事】