❖ミディアムが良い場合もあればウェルダンが良い場合もある❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2022年2月28日)
(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)
◆ミディアムが良い場合もあればウェルダンが良い場合もある◆
この前、イタリア料理を食べたとき、メインで肉が出てきた。焼き方を聞かれたかどうか覚えていないが、気にすることなく食べたことを考えると、偶然にも好み焼き方だったのかもしれない。
私はしっかり焼いた肉が好きである。グルメではない私でも、肉の焼き方に種類があることは知っている。よく知られている焼き方としては、レア、ミディアムレア、ミディアム、ウェルダンがある。レアは表面に少し熱が入ったくらいで、ほとんど生の状態である。それよりももう少し熱を加えたものがミディアムレア、さらに熱を加えて中に一通り火が通っているが少し中に赤みが残っているのがミディアムで、中までしっかり火が通って赤みがないのがウェルダンである。
調べてみると、焼き方はさらに細かく分けられていて、一番細かい分け方は10段階のようである。最初は、全く火を通さない生なのでこれを焼き方に含めて良いものが疑問だが、この状態を、ロー(raw)と呼ぶ。そこから火が少しずつ通る順に、ブルー(blue/bleu)、ブルーレア(blue rare)、レア(rare)、ミディアムレア(medium rare)、ミディアム(medium)、ミディアムウェル(medium well)、ウェル(well)、ウェルダン(well done)、ベリーウェルダン(very well done)という名で呼ばれている。
この分け方でいうと、一番しっかり火が通っているベリーウェルダン(very well done)が私の好みである。肉を焼くということは、肉に火を通すことを目的としているはずである。人類は何のために肉を焼いて食べる習慣を形成してきたのか、そこには「美味しく食べるため」という目的もあるが、それよりも「安全に食べるため」という目的の方が、人類の歴史を遡ると重要だったのではないだろうか。
もともと焼くという調理法は、食中毒などを回避するために生まれたものだろう。その後、調理法や保存法が発達し、生に近くても安全に食べることができるようになったと考えられる。ということは、人類は技術を発達させて食中毒リスクを回避しているだけであり、危険な状態に陥いる可能性は依然として残っているわけである。
別の機会に綴ろうと思うが、私は大学生で一人暮らしを始めたとき、食中毒になったことがあり、相当苦しめられた記憶がある。この出来事を私は「神戸チーズケーキ事件」と呼んでいる。
さて話しを戻すと、とにかく私はしっかり焼かないと心配なタイプということである。これ肉だけではなく、パンもそうである。パンの場合は、肉のように焼き方で好みが分かれるというものではなく、しっかり火が通らずに例えばミディアムレアなどではダメだろう。
それでも、レアとかミディアムレアとかならば、もう一度焼けば何とかなるかもしれない。だからといって、とにかくたくさん火を通すのが正解になるかというと実はそうではない。
先日、サンマルクで購入したチョコクロは明らかに火が入り過ぎた状態であった。色が明らかに黒いのが、別の日に撮影したチョコクロと比較してみるとよくわかる。
パンにしても肉にしても、火を通すのは食中毒リスクを回避するために人類が獲得した知恵である。しかし焼き過ぎると、ベリーウェルダン(very well done)を乗り越えて、ダァム (damn)というスラングの状態になるだろう。damnの意味としては、チクショーとかクソとかダメであり、焼き過ぎた結果、「焦げた」状態となり再生不能になるわけである。
焼くことは重要だが、どこまでも焼いて良いということではない。何事もバランスが大切である。
それを儒家の祖である孔子は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉で表現し、このバランスは「中庸」と呼ばれる。
また古代ギリシアの哲学者で万学の祖とも呼ばれるアリストテレスも「中庸(ギリシア語ではメソテース)」について次のように述べている。
「倫理的徳は或る中に関わらねばならぬし、また何らかの中庸が徳であり、如何なる性質の中に徳は関わるか、そのことが理解されねばならない。」
アリストテレスは、中庸についていくつか例を上げている。恐怖に対する平然の場合、平然が過剰だと「無謀」、不足していると「臆病」となり、中庸は「勇気(勇敢)」とされている。また名誉への意識の場合、過剰だと「驕り(虚栄、倨傲)」、不足していると「卑屈」となり、中庸は「自尊心(自負、矜持)」とされている。
現在、国際社会の秩序を不当な力で塗り替えようとして軍隊を動かしている指導者がいる。彼はかつての「大ロシア」復活という野望から、自国の威信を必要以上に高めるため、力による現状変更という「驕り(虚栄、倨傲)」の選択をしたわけである。国の威信を大切にするという気持ちが不足してしまうと「卑屈」に向かっていくので、それは指導者として適格とは言えないが、問題は過剰になることである。
Currently, there are leaders commanding the military to unjustly reshape the order of the international community. From the ambition of the former "Great Russia" revival, he chose the "swearing" of changing the status quo by force in order to increase the prestige of his country more than necessary. It is not qualified as a leader, as it tends to be "subservient" if the feeling of valuing the prestige of the country is lacking, but the problem is that it becomes excessive.
軍隊が首都を制圧しようと侵攻する中、自国の威信のため、逃げずにメッセージを送っているウクライナの指導者の姿の方が、現時点では「自尊心(自負、矜持)」という中庸の状態に映る。
As the troops invade to conquer the capital, the Ukrainian leader, who is sending a message without running away because of his prestige, seems to be in a moderate state of "pride" at the moment.
肉の焼き方の中庸は「ミディアム」かもしれないが、ウクライナ情勢の落とし所の中庸については、音の響きからいうと「ベリーウェルダン(very well done)」でなければならないだろう。
今後の話し合いが誠実に進められ、決して「ダァム (damn)」になってしまわないことを祈っておきたい。
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