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我楽多だらけの製哲書(2024年12月1日:N80)  ~時間と幸福の関係性と平家物語、そして相田みつを~

<探究対象…コラム、時間の流れ、諸行無常>

懐かしい故郷であると同時に新天地でもある北海道での教員生活も、早いもので2カ月が経ちました。

新年度となる4月からの仕事始めに比べると、年度途中での参入は、同じタイミングで働き始める人もおらず、もともと勤めておられる他の方にとっては日常業務が継続している状態にすぎないため、自分の疑問を共有したり、質問をしたりするタイミングを見つけにくいと感じていました。

そんな中で、手探りによって過ごした日々だったことも2カ月経過したことが思った以上に早かった要因だったと思います。

そんな時間の経過は、前の職場で離任式の日にいただいた花の様子からも分かりました。

最初は鮮やかな黄色であったバラの花びらでしたが、しだいに淀みのようなものが現れてきました。そして花びらも葉も力強さを失っていったのです。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」
これは平家物語の冒頭です。この世のあらゆる事象は、永遠に続くものではないことを、冒頭の一節は端的に示してくれています。

家に飾っていたバラの花も例外なく、必衰でした。しかしこうして朽ちていく姿に手をこまねいて、ダメになったら捨ててしまうというのは遣り切れない思いになってしまいます。

そこで、バラの花を近所の公園に持っていくことにしました。かなりしおれてしまった状態でしたし、これから冬に向かっていく中では、全く救済策にならないことは自覚しつつも、そのまま家でダメにしてしまうくらいならという思いで、公園の花壇に植えてみました。

ここに植えたとしても、その生命力を維持することはできないとは思いましたが、ここならば朽ちた後、土に還り養分となって、別の植物に生命力のバトンを渡すことができます。

葉っぱの方は、花びらに比べ何とか生命力を保っていたため、そのあともしばらく家のコップの中に留まってもらっていました。しかしこちらもしだいに色の鮮やかさと張り艶を失っていきました。

ちょうどそのころ、落ち葉を集めてラミレートしてみるアイデアを思いつき、コラムの新シリーズを立ち上げていました。そこでバラの葉っぱもラミレートしてみようと思ったわけです。

落ち葉をラミレートするのと同じように、台紙の上に葉っぱを置き、シートをかぶせます。そしてラミレーターを通すと、葉っぱは密閉空間の中に収まりました。こうして葉っぱはこれ以上、色や張り艶を失うことなく保存される形にできました。

このアイデアをもっと早く思いついていれば、花びらの方もラミレートできたとちょっと残念に思っています。

しかしラミレートされず花壇の土に還った花びらと、ラミレートの密閉空間の中に留まる葉っぱとを比べたとき、果たしてどちらが幸せなのだろうかという考えが浮かんできました。

さきほどの平家物語の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。」をネガティブに捉えたならば、かつては生命力に満ち溢れ、輝かしい状態であったバラが、時間の流れによって朽ちていってしまって悲しいとなるでしょう。その場合、朽ちてしまった花びらよりも、その状態を維持できている葉っぱの方が幸せだと考えることができそうです。

けれども平家物語の冒頭は、そのように全ての事象が永遠ではないということの悲哀を単に伝えているものなのでしょうか。

花びらは確かに朽ちていき、その姿をこの世に留めることはできなくなりました。ただ花びらが持っていた生命は、形を変えて別の植物に受け継がれており、今もどこかで生き続けているといえます。そう考えると、花びらの時間は今も止まることなく流れていると捉えることができるのです。

これに対して葉っぱは、密閉空間の中で朽ちることなく、その姿を維持しています。しかし葉っぱの持っていた生命もまたその空間に閉じ込められてしまい、別の植物に託すことはできません。そのため葉っぱの時間は止まってしまったわけです。

朽ちていくことの恐怖から、自らを取り巻く時間の流れを止めて、その姿を維持できているように見えますが、それは単に「滅び」を先延ばししているだけにすぎないかもしれません。そして何かの拍子にラミレートが破れ、外気が入り込んできたならば、葉っぱは一気に「滅び」に向かっていくと思います。ラミレートによって、目先の腐敗を回避できただけであり、ラミレートという物体自体が永遠不変であるわけではありません。劣化・破損の可能性は十分にあるため、葉っぱはその恐怖から逃れることはできていないわけです。

そう考えると、見た目の上では「生きながらえ『させて』もらっている」ような状態の葉っぱは、常に恐怖と隣り合わせで、幸せとは程遠いようにも思えます。

それよりも、自然法則の下で朽ちて土に還り、生命のバトンを渡すことによって、どこかで生き続けることになる花びらの方が、自らの有限と運命を受け止め、「次なる生き方」を選べている点で幸せなのではないでしょうか。

「過去無量の いのちのバトンを 受けついで いま ここに 自分の番を生きている」
これは書家・詩人である「相田みつを」さんの詩の一節です。

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