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❖紅葉と銀杏の樹の下にも❖ まいに知・あらび基・おもいつ記(2021年12月15日)

(長さも中身もバラバラ、日々スマホメモに綴る単なる素材、支離滅裂もご容赦を)

◆紅葉と銀杏の樹の下にも◆
梶井さんは、かく語りき。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」
坂口さんは、かく語りき。「桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、・・・大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。」
どちらにしても、桜の美しさは、手放しで喜べる明るいイメージでは片づかないようで、曰くつきである。梶井さんは、桜の下には屍体が埋まっていると考えている。坂口さんも、桜の下に降り積もる花弁の海は人を飲み込み、後には虚空しか残らないと考えている。お二人とも、桜は人を養分にしているという点で一致している。映画のマトリクスでは、システマティックな世界において人が養分になり、こちらでは、メルヘンな世界において人が養分になっている。人はそれだけ膨大なエネルギーを宿している。今は桜の季節ではないので、桜に怯える必要はない。しかし人のエネルギーを狙っているのが桜だけと考えるのは、いささか楽観的ではないだろうか。桜の美しさや鮮やかさが人のエネルギーに支えられているのならば、同様に美しさや鮮やかさを放つ他の木々にも疑いの目を向けなければならない。他の木々も同じ手法で、自分たちを美しく鮮やかにしているに違いないと考える方が自然ではないか。多分、やつらも同じ罪を犯しているはずだ。そうでなければ、あの美しさや鮮やかさを作り出せないし維持できない。だから、「紅葉と銀杏の樹の下『にも』屍体が埋まっている」、これは信じていいことだろう。秋になり、公園などの近くを通ると、見事にそびえる紅葉や銀杏の存在感に圧倒される。しかしそれは単なる威圧感ではなく、何となく不気味さを伴うものなのである。そして、梶井さんや坂口さんの話を合わせて考えてみると、背筋に冷たいものが走る。紅葉のあの色は、自分で犯行を仄めかしているようなものである。犯行に使った凶器を持ったままというべきか、犯行時の返り血が手や服についたままというべきか、とにかくその「赤」が全てを物語っているのである。紅葉は罪を犯しているに違いない。だから、あんなに見事に美しく鮮やかに赤々としているのだ。私には、紅葉の見事な赤は血液が支えているように思えてならない。血液の中のヘモグロビンが持つ色素によって紅葉は美しく鮮やかなのだろう。次は銀杏である。銀杏は紅葉よりも巧妙だ。犯行を仄めかすことはしない。しかしあれだけ見事な黄色がどこからくるものなのか。銀杏は人の養分を静かに吸い取るが、液体成分だけを好んで吸い取る。血液の液体成分の血漿、組織液、リンパ液などを銀杏は吸い取る。血漿は黄色だし、組織液やリンパ液は血漿が細胞やリンパ管に染み出してできあがるものなので同様に黄色である。だから、銀杏の見事で美しく鮮やかな黄色が生まれるに違いない。紅葉や銀杏の樹を眺めているとき鳥肌が立つのは、秋で寒いからじゃない。紅葉と銀杏の見事さを支えているものの恐ろしさに対する寒気である。そう考えると、降り積もる紅葉や銀杏の絨毯に踏み入れていた足が気になり、思わず引っ込めてしまった。美しいものにはトゲがあるというが、紅葉や銀杏の美しさには、桜と同じように恐ろしい秘密があるということだろうか。

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