▼哲頭 ⇔ 綴美▲(11枚目と松尾芭蕉)
(哲学を美で表現するとしたら?美を哲学で解釈するとしたら?そんな思いをコラムにしたくなった。自分の作品も含めた、哲学と美の関係を探究する試み。)
今日の1枚は、以前にペイントで作成してみた絵である。当時の自分がこの絵につけたタイトルは『祭りの跡』であった。「祭り」というものは季語で考えると「夏」なのだが、この絵の季節設定は紅葉が描かれていることからも分かるように「秋」である。
夏の風物詩であるはずの「祭り」をタイトルに用いながら、なぜ紅葉を描いているのか、時間の針を戻して、当時の思考の寄せるのではなく、現在の自分が持っている思考の枠組みによってこれを解釈するとどうなるだろうか。
絵の構図を見る限り、紅葉たちは木との繋がりを失って地面に既に落ちていたり、落ちている途中だったりという状態である。そう考えると、季節は秋といっても、夏から秋に移り変わったばかりというよりは、そろそろ秋も終わりに近づいて、冬の足音が聞こえてくる頃になるだろう。植物などが謳歌した夏が「祭り」であるならば、葉を落とし、その葉もこれから朽ちていくような段階を描いている絵の中の様子はまさに「祭りの跡」といえる。そうして季節は秋から冬へ向かっていく。
昔から秋という季節が好きだったので、この絵で表現したかったのは、植物などの様子の変化というよりも、おそらく秋という季節が持っているメッセージ性だったのではないだろうか。秋という表現は、四季の中の一つであると同時に、何らかの事象の移り変わりとしても用いられる。秋という表現が用いられるとき、それはその事象がかつての勢いを失い、終わりに向かっていく段階を示すことが多いだろう。
例えば、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの著作『中世の秋』は、中世という時代における実際の秋の様子について語ったものではなく、中世という一つの時代が終わりに向かっていく段階を語ったものである。
映画『ロードオブザリング』の中で、多くのエルフが中つ国を去り、残されたわずかなエルフたちが暮らしている様子が描かれた場面があるが、そのときも空はどこかどんよりとしていて、枯れて落ちた葉が、時折吹く風で舞っていて、それは季節としての秋であると同時に、エルフが活躍した時代が終わりに近づいていることを示していたように感じる。
こうした様子の中にある秋のメッセージ性は「栄枯盛衰」または「諸行無常」といえる。この栄枯盛衰・諸行無常には、一つの時代が終わりを迎えていくものの、その運命には誰も逆らうことはできないという一種の「儚さ」が漂っている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
栄枯盛衰・諸行無常で連想する表現の代表的なものの一つが、この「平家物語」の冒頭だろう。かつて栄華を誇った平家が勢いを失っていく様子が描かれたこの作品には「儚さ」が滲み出ている。しかしその儚さにはネガティブな要素しかないかというとそうではない。むしろ儚さの中に美しさがはっきりと感じ取れて、儚さというもののネガティブな要素を覆い隠しているようである。
その美しさは、平家支配の「綻び」・平家一門の「滅び」に付随しているものなので、あえて造語で表現するならば「綻美(ほころび)」・「滅美(ほろび)」ということになる。
そんな「綻美(ほころび)」・「滅美(ほろび)」が感じられる作品は他にもある。
「夏草や兵どもが夢の跡」
芭蕉の代表的な作品である。「夏草」という言葉から、この作品の季節は夏である。しかし、それは私が描いた作品のタイトルに「祭り」という言葉が使われているものの、本当に表現したいのは、言葉が持つ表面上の季節としての「夏」ではないのと同様である。どちらも、或る事象がかつての勢いを失い、終わりに向かっていく段階としての「秋」が表現の核心である。
芭蕉の句が詠まれた平泉でかつて栄華を誇った奥州藤原氏、彼らの生き様全体を「四季という物語」として捉えたとき、輝かしかった時代が夏であり、それが失われた今は秋、それも晩秋なのである。それは芭蕉がこの句を詠んだ実際の季節とは別の話である。
ここから芭蕉の句も、今日の1枚も、「四季という物語」の秋に漂う「綻美(ほころび)」・「滅美(ほろび)」と繋がっていていると考えられる。
こうした「綻美(ほころび)」・「滅美(ほろび)」の世界観は、平安末期頃から日本文化でも確認できるようになる。西行や鴨長明が代表例である。その後、鎌倉を経て室町になると、「侘び・寂び」という言葉とともに、茶の湯や石庭でその世界観が表現されることになる。この侘び・寂びを乱暴に定義づけするならば、前者は物質的または空間的に満たされていない状態であり、後者は精神的または時間的に満たされていない状態である。この何かが失われてしまい現在の姿・様子になっているという状態を「四季という物語」として捉えたならば、「侘び・寂び」もまた「秋」であり、これらにも美しさが備わっている。これらもあえて造語で表現するならば、「侘美(わび)」・「寂美(さび)」ということになる。
そんな「侘美(わび)」・「寂美(さび)」が見事に表現されていると私が感じる芭蕉の句がある。
「古池や蛙飛びこむ水の音」
この句の季語は「蛙」で、実際の季節としては「春」を表しているが、古池に蛙が飛び込んだときに「響いた水の音」と「広がっていった水面の波紋」の中に「四季という物語」としての「秋」が感じられ、そこに「侘美(わび)」・「寂美(さび)」が備わっているのである。
水の音については「音の鳴り始めから鳴り終わり」、水面の波紋については「蛙が飛び込んだ1点から池の外円への広がり」がそれぞれ一つの物語なのである。芭蕉は音の余韻や波紋が消えかかる姿に、晩秋を感じたのではないだろうか。その失われていく状態がまさに「侘美(わび)」・「寂美(さび)」であったと私は思うのである。音にしても波紋にしてもその様子は、祇園精舎の鐘の響きと同様で、はっきりとした有から静寂としての無に向かい、そこに美が備わっているのである。
ここまで今日の1枚から出発して、何らかの事象における「四季という物語」としての「秋」について考察してきた。そして秋というものが、儚さや喪失というネガティブな要素を持ちながらも、それを覆い隠してしまう魅力として、余りある美しさを備えていることが確認できた。その美しさは「綻美(ほころび)」・「滅美(ほろび)」・「侘美(わび)」・「寂美(さび)」といった造語で表現することができると思う。ただ、これらの美しさはいずれも、何らかの事象が終わりに近づくことで生じているため、これら全てに共通しているのは「事象の結び」と言えるのではないか。つまり、秋が持つ美しさの本質は「結美(むすび)」ということになるだろう。