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読書好きな子が、意外と国語の読解問題が解けない理由・その2

前回、「その1」では、国語の読解力として求められることが、「趣味」としての読書ではあまり鍛えられないのではないか、ということを書きました。

今回は、違う観点から書いてみましょう。ちょっと枝葉の話になるかもしれません。

(1)記憶力は鍛えていますか?

記憶力が良いとか悪いとかと言いますが、一般的に「ずっと忘れない」「大量の記憶を整理できている」というようなことが評価されますね。
国語的な読解力が話題になる際に、記憶力の話をする人はあまりいないのかもしれません。

しかし、私は結構重要だと考えています。

特に「ワーキングメモリ」です。

ワーキングメモリについて、詳細を書いていくと長くなるので、ここでの主張をわかっていただくために簡潔に説明すると・・・

「ある作業を完遂するために、必要な項目を一旦短期的に記憶する力」としておきましょう。

PCでいうと、まさに「メモリ」です。SSDの容量ではありません。

意外と話題にならないテスト用紙レイアウト

例えば小学校低学年での国語のテスト用紙と、高学年でのテスト用紙はレイアウトが異なっていたりします。(学校などによる。)

低学年のテスト用紙レイアウト


高学年のテスト用紙レイアウト

違いは、「読むべき文」と「問い」の距離感です。低学年の場合、いざとなれば、文章が頭に入っていなくても、解けるレイアウトになっています。

つまり、例えば問い①で問われている箇所は、すぐ上の傍線部①を見ればいいのです。同じページにある場合には、それが簡単にできます。

ところが、高学年以降になると、文章が長くなり、文章や問いが複数のページにまたがることで「めくりながら、探す」というアクションが途中に入ってくることになります。

これは、かなり認知負荷がかかります。ところが、それを「どのように鍛えるか」という話題はあまり聞いたことがありません。

要は、「ある程度の文章のまとまり」を、理解して、一旦頭にいれる(短期的に記憶する)という認知過程が必要なのですが、以下の点が誤解されています。

・理解したら覚えているだろう、という思い込み/期待
・文章は暗記したらいいのか、という誤解

理解というのも、厄介な概念です。
読書でいうと、楽しんで読んでいる場合、ある意味で理解しているからストーリーを楽しめているわけです。
極端な想定をすると、Aさんは3行分の記憶しかできないけれど、Bさんは50行分の記憶ができる場合、一度通読するスピードというよりも、その後の「振り返り」「内容を吟味する」という段階に進んだ時に、急に効率が悪くなります。

3行読むたびにキャッシュやメモリがクリアされていたら、非効率なのと同様です。

趣味の読書の場合には、スピードも、理解度も、自分の好みに沿っているだけなので、このような「振り返り」ができているかなどのメタ認知を意識することがありません。だから、読書量がある・読書好きということが、イコール「読解力がある」「理解している」「理解している内容を(自覚的に)覚えている」という保証にはならないのです。

理解しない場合には、まるでお経を暗記するように闇雲に暗記するだけになります。それでは、そもそも読解力は身につきません。ですから、理解は必要だとしても、その「まとまり」がある程度大きい状態にするトレーニングは必要です。

本全体を読了してから感想を尋ねなくとも、「今日はしばらく読書していたな」と思ったら、保護者の方が「どんな話なの?」のように尋ねるとか。

オススメしているのは、テレビ番組を親子で一緒に見ることです。約15分ごとにCMが入ります。その間に、「さっきのシーンさ、あれはどういう意味だったのかな?」のような会話をする機会だと捉えてください。

(2)「理解」は脳内で起きている?

最近、脳科学の話題が盛んで、「〜脳」というようなフレーズが流行っていますね。私は某・出版社にいましたが、このフレーズがよく本のタイトルについていました。しかし、私が入社してからは「撤去」してもらいました。

理由は簡単なんですよ。そんな脳は「ない」からです。
「天才脳」? ・・・天才、賢い、じゃダメなのか?
「理系脳」? ・・・理系かどうかは進路の問題であって、例えば、中堅大学の理系学部進学者よりも旧帝大の文系学部進学者の方が数学ができる場合はある。

「理解」というのは、脳内をいくら調べてもわからないのですよ。
「脳が活性化」している瞬間は確かにあるでしょう。「思考」をしている時に、特定部位の血流や脳波が活性化することはわかっています。
私も、脳科学の研究室で、パズルを解いている時の脳波を計測してもらったことがあります。めっちゃ活性化していましたw

ところが、理解というのは、
・本人が「わかった」状態になっている
というだけでは十分ではありません。
「わかったつもり」になっているだけかもしれないからです。ある意味でその状態は「信念(「自分は理解できている」)」は持っているのですが、残念ながら、正しい理解・正しい知識というのは公共的なものです。

だから、テスト(検証)が必要なのです

脳科学の発達は、スポーツで例えて言えば、優秀なアスリートの筋肉や神経を調べたら「このような特徴があった」ということが明らかになってきたスポーツ科学の発達に似ています。余計な負荷をかけないとか、適度な休憩が必要とか、そういったことが、精神論やスパルタ方針に対して、数値で可視化されることで、パフォーマンスをあげることができます。

しかし、スポーツのパフォーマンスを評価・判断するのに、別に血中酸素量を確認しなくても、競技の中でパフォーマンスは発揮されているはずです。
学習も同様のはずなんです。

読解「力」は脳内で発揮されるものではない

読解力というのは、大きくは、社会生活の中で人との交流や業務遂行などの活動の中で発揮されるものです。だから、一人で趣味を消化するだけであれば、発揮されていなくても誰も文句は言いません。(読解力や教養が必要な趣味の場合には「高尚な趣味ですね」と褒められる程度か。)

私は読書を否定していません。むしろ、するべきだと思っています。読書が深く・多様であるほど、読解力は上がっていくと思っています。
ピアノを闇雲に引いたから音感が絶対に向上するとは言えませんが、楽器を弾いたり音楽を聴いたりする具体的な活動がないと音感は鍛えられません。それに似ています。

「読書好き」という評価がなされるのは、やはり趣味の活動範囲なのです。
しかし、読解力は社会的・公共的なレベルで語られるべきものなのです。
この区分を見誤らないで欲しいのです。

(3)公共的な「読み」とはどのようなことか?

不思議な英語塾の看板を最近見かけました。

「先生がネイティブなので、英語力がみるみる上がる」

先生が英語ネイティブスピーカーだということですよね?
なぜ、先生がネイティブスピーカーだと英語力が向上するのでしょうか?

確かに、聴く・話すといった発音に関わるところはやはりネイティブスピーカーが良いですね。また、英米圏の文化的背景など、日本人教師だとわからないネタなどもあり、興味が湧くかもしれません。それが、動機づけになることは考えられます。ただ、これは学習の中の一部分に過ぎません。

私たちは国語という教科をジャパニーズ・ネイティブスピーカーに習ってきましたが、それでも大きく差をつくことを知っています。(全員が、『共通テスト』で8割とれるでしょうか?)
日常会話レベルであれば、問題ないでしょうね。でも、文章を書くこと、人の話を要約することなど、国語力を駆使することが求められる場面で、やはり基準に達していない人はたくさんいます。

私たち大人でさえ(塾の先生でさえ)、意外と思考停止に陥っていることや国語力を使いこなせていないことはたくさんあるのです。

「その1」でも、十人十色の読解について、疑義を挟みました。
私たちが国語を学ぶ理由は、社会活動を円滑に進めるため、また高度な文化を築く基礎を学ぶためです。

その意味で、同じ本を読んだとしても、人によって評価がちがったり、解釈がちがったり、着眼点がちがったりすることを知ることが重要です。

よく読書感想文をうまく書く方法が話題になります。
もちろん、書き方の型は大事です。これも、公共の読解というプラットフォームになるからです。また、いきなり「書きたいように書け」というのは意外とハードルが高いので、「こんな書き方から始めてみよう」というように促すというのは非常に有益です。

ただ、読書感想文は、賞をとるためでも、大人好みの文章を書くものでもありません。
しかし、読書感想文をうまく書ける子の作品ばかりが取り上げられますが、本来、クラスメイトの文章を読む機会としても利用することも検討されるべきです。
読書感想文の入賞者以外にも、着眼点の鋭い子もいれば、「なんで、そう読むんだ?」と不思議がって読んでいくと意外な盲点を大人が見落としていたことがわかることもあります。

要は、そのような多様な読みをする人たちがいるという事実を学び、それでも「こう読むのが妥当である」という妥当性を学び、それから逸脱していても「個性的な読みだね」と思えるような感性のストレッチも同時に学びたいものです。

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