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(本稿は拙稿「鳴かぬなら‥‥‥ホトトギス」(2023年9月投稿)と内容が一部重複しています。)
哀愁をおびた汽笛が 戦国の世へとどけとばかりに鳴り響いた
今から60年前、学生だった頃、私が読みふけっていた一冊の文庫本があります。「大和古寺風物誌」(亀井勝一郎著、新潮文庫、1953) です。 我が人生の晩年にカメラを通して一乗谷や平泉寺等の史跡にのめり込んでいるのは、この文庫本の影響もあるのかもしれません。 「歴史に参入するものは、まず廃墟に佇んで己が愛を傾けるべき人間と邂逅しなければならぬ」という一行は、朝倉氏遺跡や白山平泉寺の史跡と対峙している私にとって、撮影スタンスの根底をなすものです。
仲よき事は 美くしき哉 (武者小路実篤)
私は動物写真家ではありませんが、一乗谷朝倉氏遺跡に生きる「いのち」には人一倍の親しみと愛おしさをもっています。 遺跡内で偶然見かけると、かなり近くまで接近し、最後に飛び立つ瞬間まで1時間でも2時間でも愛しき「いのち」に付き合います。 今回は羽ばたきのダイサギ君をご覧いただきたいと思います。
一乗谷を撮り始めてから17年目に入っています。 撮影の本来の目的は、戦国時代の本物の遺構(朝倉氏遺跡)を通して、そこに住んでいた朝倉人の気配を撮ることでした。 しかし、目に見えないものを撮るということは非常に難しいことです。往々にして独りよがりの自己満足に陥りがちなことは否めません。 写真界の巨匠、土門拳をもって「眼に見えないものは、いくら長時間露出をかけようと、写らないということだ。」(土門拳著「写真随筆」ダヴィット社刊、1979)と言わしめているカメラの物理的