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本稿の目次①~➃は、去る11月16日、白山平泉寺歴史探遊館「まほろば」映像ホールにて開催された講演「石は黙ってものを言う」で私が話させていただいた内容の中、「下城戸」に関する部分だけを抜粋した記事です。 文体は講演での話し言葉を改変してあります。 (目次⑤は新たに10枚加えた画像「いのち」で、講演とは無関係です。) ① 下城戸は検問所だった 下城戸は上城戸とともに一乗城下町の玄関(入り口)でした。 その役割は二つあったと言われています。 一つは往時、外来者(旅人
俳句の季語になっている「黄落」をテーマに、今回は朝倉氏遺跡の風景の中で数年間にわたって撮影した画像で私の感じることを表現してみました。 撮影の舞台となったのは城主、朝倉義景に重用された、いわばお抱えの上級職人が集住していた米津地区です。 この区域には数本のイチョウがあり、晩秋には黄落の情景が醸し出されます。 ちなみに私個人の感覚では、 紅葉からは朝倉武士の燃えたぎる「情熱」が、 黄葉からは一乗城下町に暮らすに朝倉人の「やさしさ」が 連想されます。
500年前の戦国一乗城下町、その麓から距離にして約1500メートルの登坂道が続いていた。 その道路は現在も残っている。城山(標高436m)へ至る山道である。かつては警備の朝倉武士が行き交っていた重要な道であった。現状は十分に整備されているとは言えないが、今もハイカーを時折見かけることがある。 往時、山上にはたくさんの要塞を備えた御殿城郭群が建っていた。マスコミは一時「日本最強の一乗谷城」と称したこともあった。 しかし1573年、城下町だけでなく全てがもぬけの殻となっ
(1)約3週間ぶりに一乗谷へ 昨日午前、約3週間ぶりに一乗谷へ。9時頃~11時頃まで撮影。 いつものように「今日も単独行」‥‥‥‥のつもりだった。 彼岸花と唐門を絡めて撮っていた。そこへある写真愛好家さんがやってきてアドバイスを請われた。 普段、変人北野は敬遠されて誰も近寄って来ないのに珍しいことだ。 彼の真剣な顔を見て決めた。他人と同じような写真ではなくて自分だけの絵作りをしょうじゃないか、と30分ほど個人レッスンになってしまった。相手が熱心だと、ついつい熱