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武満徹著作集1(著:武満徹)読書感想文①

武満徹著作集1 所収『音、沈黙と測りあえるほどに』感想文


(武満徹著作集1には『音、沈黙と測りあえるほどに』『樹の鏡、草原の鏡』の二つの著書が所収されている。今回は①と題して『音、沈黙と測りあえるほどに』の感想文を書いてみたいと思う)

武満徹さんは音楽家である。
そして論理的であり知識に富んだ詩人だとも思う。
どの文章を読んでいてもポエジーを感じる。

例えば、『音、沈黙と測りあえるほどに』の中には、こんな文章がある。

音は、時間を歩行しているからいつも新しい容貌でわれわれの傍にいる。ただわれわれは、いくらか怠惰であるためにそのことに気附かない。構成的な音楽の規則に保護された耳は、また音をただしく聴こうとはしない。痩せた自我表出に従属する貧しい(音楽的)想像力には、音は単に素材の領域の拡大や目新しさとして聴こえるにすぎないだろう。
音はつねに新しい個別の実体としてある。なにものにもとらわれない耳で聴くことからはじめよう。やがて、音は激しい変貌をみせはじめる。その時、それを正確に聴く(認識する)ことが聴覚的想像力なのである。

『武満徹著作集1』p.190

自分もこの詩的な武満さんの文章を読んで刺激を受け、いくつかの詩を書いた。

自傷とは?
言葉と音と映像と(習作)
音を耕す
死んだ言葉は響かない
音楽と自然


これらはこの『音、沈黙と測りあえるほどに』を読んでいてインスパイアされ書いたものである。

自分は『坂本図書』という本からこの『武満徹著作集1』を知り、図書館から借りてみたもののまずその分厚さに慄いた。これ読み切れるのか……?と不安になったし、難しい音楽理論でいっぱいだったらどうしようと心配だったがいざ読んでみると意外とスラスラと読めた。

だが、感想文を書きたいと思ってメモしていたら自然と上記の詩たちになっていた。感想文というのは聞いたことがあるが、感想詩というのはあまり聞いたことがないぞ。

さて、この本の中の『音、沈黙と測りあえるほどに』には映画と音楽の関係について実践と知的探究心に富んだ論考や対話形式の文章が書かれている箇所がいくつかあってそれらに大変興味をそそられた。

黒澤明が『野良犬』でやり、ジュリアン・デュヴィヴィエが『望郷』の自動ピアノを鳴らした〈対位法〉とよばれるようなやり方は、一見ひとつの方法のようではあるが、それは映画というものをたんなるストーリーを運ぶセルロイドの帯として固定した考えからうまれたもののように思えるのです。

『武満徹著作集1』p.162-163

「セルロイドの帯」というのは、昔の映画はフィルムで撮影され上映されており、そのフィルムがセルロイドでできていた。つまりはフィルムのこと。
〈対位法〉とは、この『望郷』を例にとって言えば、殺人の場面で明るい自動ピアノを鳴らして、その異常さによって人を惹きつけ、逆に緊迫した効果をうむこと。

武満さんが言いたいのは、音楽を演出の方法として使うにはいい……のか?ということで、「それが主題と深く関わらずに完結したのでは、ひとつの自立する芸術として、音楽が映画に参加する意味はない」ということ。したがって、映画が良くなければ本当の意味で、音楽も良いとは言えないんじゃないかと。

〈ことばと映像〉〈ことばと音楽〉という問題について、僕自身はまだ答えを出せないでいるんだけどーー。
つまり、ことばを繰返す人間の行為ーーたとえば映画をつくる行為でも、音楽をつくる行為でもすべてそれはことばに迫ろうとしている行為だと思います。ーーことばって何だと言えば、コミュニケーションするうえででてきた記号的な符牒なんですけども、言葉をつかうことで自分の中に他人という意識がでてきます。他者というものが、自己の内部に位置を占める。〈見る〉とか〈聞く〉とかという行為は、自分ひとりでいるときには起らないんで、必ず他者が自分の中に入ってきて、そういう行為がおきるわけです。つまり、そこでは、作家は自分の中に自分をみているということになる。

『武満徹著作集1』p.164-165

僕はこの箇所から一編の詩を書いた。
『言葉と音と映像と(習作)』である。
武満さんのおかげで、他者のことを深く考えるようになった。考えすぎて、詩の最後の段に、

現実は他者でできている

とまで書いたが、流石に言い過ぎなのと、もう一回武満さんの言葉を読んで、「自分」も入れるべきだと思い直した。

現実は自分と他者でできている

だが、これでいいのかという疑問も正直自分の中ではある。だからこの詩は習作なのだ。

何かをのぞいてみるということは、もっとも孤独なことなんですね。のぞいた時、そこに他者を見るーーこれほどドラマティックなものはないと思うのです。
映画を〈撮る〉作家はたくさんいるけれども、〈見る〉作家は非常に少ないと思う。つまり、これからは〈見る〉人が映画を作るべきだと思います。

『武満徹著作集1』p.165

〈見る〉あるいは〈見よう〉という作家の例として、武満さんは、一時期の大島渚やジャン=リュック・ゴダール、羽仁進、勅使河原宏などを挙げている。

そして、映画の中のものは全て再生不可能であり、〈見ている〉作家はいわば「死」をみていると言えるのではないかと武満さんは言う。

詩人で映画監督のジャン・コクトーは「映画とは活動中の死をとらえることだ」と言った。
とすれば「〈見る〉という行為自体、批評を越えたもの」である。
ただ、そういうふうに映画を〈撮る〉〈見る〉というのは映画をつくってみないとわからないし、しかし結局は永遠にわからないものであり、だからこそ映画ってなんだろう、と問いながらつくり続け、だからそれを他人がみる。
これは音楽家も同様で、音楽とはこういうものだとやっている人はいないのだ。

②につづく……つもり。

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