この本は、ドグラ・マグラなのである。(大学時代に書いたドグラ・マグラ論の改訂版)
約10年前、大学時代に書いた夢野久作の小説、『ドグラ・マグラ』の小論を改訂して書いてみたいと思います。
この本は、ドグラ・マグラなのである。
と、寺山修司は自身のトラウマについて書いている。夢野久作は彼の作品にかなりの影響を与えているはずだ。
私も笑いの恐ろしさをこの『ドグラ・マグラ』に感じた。しかし読んでいてなぜかニヤニヤが止まらない。くすぐられているような感覚を覚えた。
笑い声が何回書いてあるか数えてみた。118回は「アッハッハッハッハッ」やら「イヒヒヒヒヒヒヒ」である。もし数え間違いがあったとしても確実に100回は超えているだろう。
非常に多い。こんなに笑い声を堂々と延々と書いている小説は中々ないだろう。なぜ『ドグラ・マグラ』は笑いを生み出し、恐ろしくもあるのか。
しかし、この本は簡単に要約ができない内容であり、まさに奇書であるがゆえに、真正面から論ずるのは不可能だと判断し、このような切り口で挑んでみた。そのため劇中に出てくる論文やらの解説やその意味の解読までには及ばなかった。それについてはご了承願いたい。
また、このレポートの最後にある『ドグラ・マグラ』からの「巻頭歌」の引用を含む文章と、「この本は、ドグラ・マグラなのである。」という一文が私なりに『ドグラ・マグラ』という小説を理解しようとした結果であり、“まとめ”となっているつもりであるが、このレポート全体をふくめ全くまとまっているようには見えないかもしれない。
恐らく、ただ馬鹿馬鹿しくも見えるだろう(あるいはあの小説を読んでしまったが故に、私の頭がおかしくなってしまったのではと心配される方もいるかもしれないがそんなことない。……と信じたい)。
しかしながら、それが私の現時点での『ドグラ・マグラ』論の限界であり、最も重要な反省点になりうるかもしれないし、結論なのだ。むしろこのレポートを読み、何か可笑しいと思っていただければ幸いである。
「要約ができない」とは書いたが、一応あらすじのようなものを書いておく。
「私」がある部屋で目覚める。しかし、自分が何者なのか、どうしてここにいるのか記憶がない。そこに若林博士と名乗る人物が現れ、ここが九州帝国大学精神病科であるという事、その精神病科の主任である正木博士という男が先月自殺したという事、「空前の犯罪事件」に「私」が関わっていたという事が次々と語られる。そして治療のためにと、正木博士の遺稿を渡される。「私」は奇妙奇天烈なその内容に引き込まれてゆく……。
「どうだ……読んでしまったか」読んでいた原稿から目を上げると、そこには若林博士の姿はなく、なんと自殺したはずの正木博士がいた。驚く「私」。
その「私」が関わったらしい「空前の犯罪事件」は呉一郎という男が引き起こしたらしいのだが、次第に「私」は自分が呉一郎なのではないかと思い悩む。しかし実はその事件の真犯人(事件のきっかけを作った人物)が、正木博士であったという事が博士自身の口から語られる。正木博士は長年にわたり、呉一家を精神病研究のための実験台として利用していたのだ。これを聞いた「私」は困惑しながらも次第に、いま、何が起きているのか悟ってゆく……。
と、ここまで少し長めのあらすじのようなものを書いてきたが、このあらすじは全く意味のない可能性がある。なぜなら、この物語の全てが、一人の人間の妄想に過ぎないかもしれないからだ。
この本は所謂ループ構造となっており、最後まで読むと最初に戻ってしまうという構成になっている。(単に最初に戻った訳ではないのではと指摘できるかもしれないが。)
しかも作中に『ドグラ・マグラ』という本が出てきたり、途中から正木博士の研究書の世界に入っていってしまうため、大変複雑な構造になっている。また、角川文庫版『ドグラ・マグラ』(下) 【1976 年 10 月 10 日初版発行】の 187 ページには、「私は本当を言うと、この時の私の心持ちをここに記録したくない。」と書かれている。いつどこで何に記録しているのかが全く分からないためさらに読者は戸惑うこととなる。
これは作中の「私」のみならず、読者にも絶望的な無間の世界を感じさせる。それは彼が修行をしていた禅宗の影響もあったのではないだろうか。
ちなみに 2013 年 11 月、九州大学記録資料館が保管している久作の長男である杉山龍丸の遺品から発見された初期の草稿では、『ドグラ・マグラ』は驚くべきラストをむかえることとなっていた。完成作品のラストに続けて、<=九州帝国大学精神科教室標本室備品=>との記述がある。【2014 年 1 月 9 日 読売新聞 朝刊より】
夢野久作はこの作品を当初、「堂廻目眩」(どうめぐりめぐらみ)させないつもりだったのだ。
しかしそれではこの小説を『ドグラ・マグラ』とは呼べない。
『ドグラ・マグラ』は現在、『青空文庫』で自由にどこでも気軽にそして、孤独に読める。あらゆる人々に解き放たれた奇妙奇天烈なイメージの世界が自分の目の前だけに雄弁に語って来る。特に、若者たちの夢野久作への興味関心(例えば三大奇書と呼ばれ続けている異端のモノとしての話題性。角川文庫版の本の異様なカバーと内容のおどろおどろしさ。エキセントリックに見える言葉遣い等。)は今においても更に広まってゆくであろう。
夢野の年譜の中に軽く書いたが『ドグラ・マグラ』の登場人物たちにはモデルがいたという。正木博士は榊保三郎という九州帝国大学医学部精神科の初代教授がモデルになっており、その正木博士のライバルである若林博士は、二代目教授の下田光造が就任するまで精神科教授を兼任していた医学部長兼法医学教室教授の高山正雄がモデルであるとされている。
榊保三郎教授は『ドグラ・マグラ』にも出てきた精神病患者の解放治療を行なっていた。
また当時の医学界を騒がし、論争を巻き起こした「若返り療法」という老人、および精神病者に対して行なう治療法にも興味関心を示し、甲状腺投剤によって患者の外貌だけではなく、精神状態も良好になった。などと榊教授は主張。更に、ヨーロッパでは既に実際に応用されていた手術による若返りをも目指し実践もしていた。ところが、その所謂、「若返り手術」に対する反論が欧米、そして日本においても相次いで報告されていた。そして『ドグラ・マグラ』の舞台となった年の前年、1925年に特診事件という、九大医学部前の旅館で公務以外の診察をし、特診料を受け取っていたというスキャンダルが発覚し、榊は教授職を辞職することになってしまった。
これらの、破天荒かつある種狂気をはらんでいたようにも思える榊教授による九大精神科の動向を当時、九州日報の記者で、諸岡存助教授と親しかった夢野久作が取材していないはずがない。
この小説の主人公は、無力だけれど、そういうことは承知しているけれど、しかしこの状況をなんとかしたい。この世に自分という存在の必要を問いたい。だから、ここではないどこかへともがき続ける。そのどうしようもない人間模様、そんな無間の悲劇が皮肉にも読者から見れば(少なくとも私には)喜劇のようにも見えてしまうのではないだろうか。
さらに、この小説は“うまれる”という事の恐ろしさ、可笑しさをついている。笑いながら死んでいこう、というより、そうやって死んでいくしかないんじゃないだろうかという、夢野久作の絶望的な宣言が『ドグラ・マグラ』という小説なのではないだろうか。小説でありながら人生論でもあり、一種の身体論でもあるのだ。(身体論という視点から考えてゆくと、話が少しずれるが極端な話、受精自体がシュルレアリスム宣言なのではないかという仮説も立てられるはずだ。要は人間がうまれてくること、それ自体がシュルレアリスムであると捉えれば、なにか可笑しくもあり、同時におどろおどろしくも感じる。ちなみにアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を書いたのは 1924年であり、『狂人の解放治療』が執筆され始めたであろう年の約 2 年前である。)
人生論・身体論という観点で読んでいけば、自分とはなにか。という命題がおのずと見えてくる。これは『ドグラ・マグラ』の重要なテーマの一つでもある。
自分を自分の目で見てみようではないか。
まず頭の天辺から足元を見てゆく。すると自分の身体は丸まってゆく。さらに足裏から背中へと見ようとすれば自然と身体はどんどんと丸まってゆく。正にその姿は、まるで胎児のようではないか……。
そしてその時、私はこの歌を引用したくなる。
そして、この本は、ドグラ・マグラなのである。