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削り出されて、誰かを満たしたい。

どんな悪食であっても猿の類は喰えないそうだ。知は及ばずとも猿は人間の親類であって、やはり同族を食べることに人間の身体は拒否反応を起こすらしい、カウンターの奥の男はそう言った。

すると、その隣の男が、いやいや俺はジャングルの奥地で猿を喰う部族の話を聞いたことがあるぞとその論を覆す。猿は食えないと主張した男はそれを聞いて、何を言っている?それは未開人の文化であり、私は文明人の話をしているのだ!と譲らない。

未開人とはずいぶん気の利いた言葉が出たもんだ。犬も食わない喧嘩話になったところで、私は追加でメーカーズマークのソーダ割りを一杯頼む。

テーマは良かったのに。もったいない。

食べることへの嗜好は性的なフェチズムに似ている。でも、フェチを語ることは一定の羞恥を伴うのに対し、食の嗜好は一様にあっけらかんと話す人が多い。不思議だ。いや、私だけが不思議がっているだけかも知れない。とにかく間違いないのは、その油断が私の大好物だということだ。

祖母はトマトに塩よりも、ブルドックソースが絶対であると決めている人だった。トマトとソースが一緒に食卓に出てこないと祖母は母を叱咤した。その執拗さを愉快な目線で見てしまうのが、この気づきの始まりだった。私には偏食が、偏愛であり、変態であるように見える。何か決まった食べ物・食べ方でないと食欲がわかないというのは、何か決まったものでないと欲情しないと同様で、実はスケベな話なのだ。

今年の夏は看護師の話が素晴らしかった。冷やしたぬきの話だ。彼女は天つゆが天かすに、じっとりと沁みきるまで絶対に手を付けない。天かすのサクッとした食感が、つゆに侵食され、無抵抗になっていく。その様がたまらなく愛しいそうだ。他にも人の変わった癖を沢山聞いてきた。しゃぶしゃぶは肉よりも灰汁を取りきった残り汁が一番だとか、味噌汁と米があったらおじやにして冷蔵庫で冷やすだとか。

私はこの趣向を性癖ならぬ「食癖」と言ってもいいと思っている。だから故に、食うてはいけないもの、の話は途中まで非常に良かった。期待できるものだった。なのに、昭和の男達はマウント合戦で終わらせようとしている。つまらない。

追って頼んだ酒は口直しのつもりであったが、締めの一杯でいい気がしてきた。ペイペイ払いよりも現金で払った方が店の為になるだろうか。持ち金を確認していると、入り口の扉の開く音がした。

気分良く酔った小太りの男だ。スタスタと入ってきて高価そうな黒い革の大きな鞄を本来上着を吊るすはずのハンガー掛けに引っ掛け、私の隣に勢いよく腰を落した。年齢は五十にかかる、といったところか。濃い茶色のスーツに薄い緑のシャツ。ネクタイも濃い茶色なのだが、合戦を生き延びた落ち武者のような乱れた髪型をしている。洒落ているのか、いないのか。幾重もの審美眼が必要そうな出で立ちだった。

「いやー、どうも。ちょっといいテキーラなんてありますか?それをソーダ割りでいただきたい。愉快な夜なんですよ」

面白そうな男だ、と思った。マスターがテキーラとメスカルの違いを熱弁する前にこっちから話しかける。

「今、聞こえちゃったんですけど、愉快な夜ってのはいいですね。何があったんですか?テキーラは無いけど、メスカルのソーダ割りならありますよ。製造方法はテキーラと変わらないし、美味しいものが多い。ですよね?マスター」

カウンター越しから、俺の仕事をとるな、と小声が聞こえて、猿を喰うかで討論中の二人もクスクス笑い出した。

「では、メスカルのソーダ割りを。たしかメキシコの中でも、原産地州と原料のアガべ品種の使い方で同じ酒でもテキーラとメスカルって呼び方が違う、でしたよね?要は作ってるところで同じ酒でも呼び方が違うんだ」

「御名答。博識ですね。生産地でのブランディングですよね。私はそこのマスターに教わって知りましたけど、それまで気にもかけたことがなかった。お酒がお好きなんですね」

「たまたまです。ワインのインポートの仕事をしているもので酒の含蓄が多少は人よりありまして。シャンパンの生産基準も同じですから。あ、そうだ。何が愉快なのか、でしたね」

落ち武者は、上着を脱いで椅子の背もたれに掛け、出されたメスカルソーダを片手に、小さく丁寧に乾杯とつぶやいて、笑みを浮かべる。

「さっき、BARで変な女性に会いましてね。その女性が人間に食べられたいって連中を知っているって言うんですよ。びっくりするでしょ?人間が人間を喰うカニバリズムですよ。でも、どうやらこれがとても嘘をついてなさそうなんです」

これを聞いてさっきの二人が顔を乗り出してきた。

「今、ちょうど人間は猿を喰えないって話をしてたところなんです!人間を食う人が近くにいるって話ですか?」

「いやいや、話半分ではありますよ。でも、あまりにも現実味を帯びていて。その女性はSMの愛好家として女王様のアカウントを持っているそうなんですが、ある日『あなたも同類?』ってコメントがあったんですって。彼女は最初はサディストとしての同類かを聞かれていると思ったらしい。でも、女王様のアカウントなんだから、そんなのは当たり前です。どうもおかしい。で、メッセージのやりとりをしているうちに、カニバリズムとしての同類かを聞いているのがわかったって。すごい話ですよね」

当然のように自分が高揚しているのもわかった。私が求めていた食癖の究極はここにあるのかも知れない、そう思った。

「それでね。その女性は、面白いことに、いや、勇気があるっていうかな。『そう、人間を食べたい』って自分もカニバリズムの同志であると話を合わせたって言うんですよ。女王は好奇心が旺盛だ!はは!でね、何日か話を合わせてやりとりをしていたら、今度は突然『どれにする?』って連絡が来た。ん?って思いますよね。どれって何?って。すると、すぐにpdfファイルが送られてきた。それが『食べられたい願望の人間リスト』だった。SNSのアカウントまで書いてあったそうですよ。そして、面白いのは、ここからです」

創作の得意話のようには聞こえないが、信憑性よりも、期待を持たせるような展開に、上手く着地できるのか?とこちらがハラハラしてしまう。

「そこまで話してたらね、急に彼女の隣の男が会話の間に入ってきて『あくまで願望だけですから!』って言うんですよ!もうびっくりして!どうやらその男が、そういう食べられたいって癖の人で。作り話かと思ったら、当事者がいるんだから驚きました」

猿は喰えないと言った男が尋ねる。

「そのリストに載ってた人ってことですか?」

「そうそう。その女王様は興味本位でそのリストから、その男を呼び寄せたらしいです。それも岡山から。二人は今日初めて会ったらしいですよ。岡山から東京まで食べられに来たのか!って思っちゃいますよね!はは!でも、基本的には、そういう癖の人達ってみんな分別があるらしくって。食べられたいけど、犯罪になっちゃうから諦めてるんですって。でも、そういった願望は持っている。だから疑似プレイをするらしいんですが、その男の願望がもう想像を超えてて!」

いつの間にか落ち武者はメスカルソーダを飲み干していた。マスターに二杯目を頼む。私は続きが我慢できなくて催促してしまう。

「その男はどうやって食べられたいと?」

落ち武者はニコニコしながら、僕のことを見つめる。話す気が無いのかというくらい間を空ける。少し気味が悪い、と感じた頃に口を開いた。

「必要なものは、鰹節だそうです。何に使うと思います?」

「鰹節?」

想像がつかなくて当然だと言わんばかりに、かぶせ気味に落ち武者は返答する。

「わかりませんよね。まず、ブルーシートを敷いてね、その上に生の鰹を一匹置く。それから、その鰹を囲むように研がれる前の鰹節を何本も放射線状に置くんですって。それで女王様をおんぶして、その鰹節を踏み続ける。中央の鰹をぐるりと廻るように踏み歩く。痛みに耐えながら、その鰹節達と一体となっていく。そして、自分が味噌汁になって食べられてしまうことを想像する。すると、どうしようもないオーガズムがやってくるんですって。彼は味噌汁に自分の肉体が溶け込んで、平和な朝食の一部になって食べられることに興奮するんですよ」

誰もが難しい表情で落ち武者に注目する。話は続く。

「彼の夢は鰹節ならぬ、人間節になることなんです。カビを吹き付けられ、天日で干され、それを何回も繰り返しできあがる自分という人間節。それが少しずつ削られ、味噌汁になり、誰かの腹を満たしていく。それを想像して彼は性的に気持ちよくなってしまう。発想がすごくないですか?人間節ですよ」

私よりも先に猿は喰えないと言った男が苦笑しながら背筋を伸ばした。

「業が深いというよりは、もう想像が及ばないね。これは人間の進化かも知れないですよ。食べられたいとは。しかし、その後はどうするんでしょう?ホテルでもそんな生の鰹一匹と鰹節が何本も捨てられてたらびっくりするだろうね」

つられて私も苦笑いをしてしまう。その通りだ。落ち武者は、そうそう!と取り戻すように声を上げた。

「忘れてた!私も処理が気になって聞いたんですよ!最後は全部持ち帰って食べるんですって!あまる前に生の鰹はタタキに、鰹節は豆腐に掛けたり、味噌汁にして飲むって言ってました!だから、ちゃんとしたSDGs!このメスカルとペアリングしたら良かったりしてね。ははは!はい、そんな話でございました。では、お会計を」

落ち武者は五千円札をカウンターに置いて、気分がいいから釣りはいらないと言って勘定を済ませた。席を立って上着を羽織る。ハンガー掛けから鞄を下ろし一度椅子に置いた、その時だった。

黒い革のバッグから、潮の香りが漂った。

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タケナカリー/竹中直己
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