【孟子見参#003】孟子の政策提言(梁恵王編③)
意訳
恵王が孟子に問う。
「自分はこの国のために心を尽くしている。河内地方が凶作となれば、そこの民が飢えないように凶作ではない河東地方へ移住させたり、他の地方から食料を移動させてやったりしている。逆に河東地方が凶作になれば同じような手段を講じて民が飢えないようにしている。近隣の他国の政治と比べてみても、自分ほど政治に心を砕いている者は見当たらない。それなのに隣国の民が我が国に移ってくるようなことはない。一体どういうことなのだろうか」
孟子が答えて言う。
「王は戦争がお好きなので、ひとつ戦争に喩えてお話いたしましょうか。戦場で進軍を合図する陣太鼓が鳴り響き、両軍の兵士たちが刃を振り上げながら戦闘を開始。そのなかで鎧を脱ぎ、武器を捨てて逃げ出す者たちがおりました。ある者は百歩逃げ、ある者は五十歩逃げました。五十歩逃げた者が百歩逃げた者を卑怯者だと笑いました。王よ、どう思われますか?」
孟子の質問に恵王は答える。
「何をいうか。五十歩逃げた者は百歩逃げなかったというだけで、どちらも逃げたことには変わりはないではないか」
王の答えを聞いて孟子は言う。
「王よ、その通りです。王のやっていることは隣国と比べればまさに五十歩百歩のようなもので対して差はありませんから、民が移ってくるなど望むことはできないのですよ。もとから民に労役を課すのに農繁期を避ければ、穀物は食べきれないほど収穫できるようになります。池や沼で魚やスッポンを捕るときは目の粗い網を使うことで幼魚まで取り尽くしてしまわないようにすれば、水産物が不足することはなくなります。材木採りのために斧やマサカリを持って山に入る季節を制限すれば、森林資源が枯渇してしまうこともありません。食料や生活に必要な資源が不足することがなくなれば民たちの生活は安定し、安心して生を全うすることができるでしょう。これこそ、王道の目指す出発点なのです。
そのために(一世帯ごとに百畝の田地とともに)五畝の宅地を与え、庭には桑の樹を植えさせて養蚕を奨励します。こうすることで五十歳を過ぎた老人も絹の着物を着ることができるので凍えることはありません。鶏や豚といった家畜を飼わせて、妊娠中などにむやみに屠殺させないようにすれば、七十歳を過ぎた隠居でも肉を食べることができます。それぞれの世帯には百畝もの田地が割り当てられているので、農繁期に労役を課したりして農業の邪魔をしなければ一般的な数人で暮らす家はまず飢えることはなくなるでしょう。さらに、学校で特に孝(親への孝行)、悌(年長者を敬い、兄弟・長幼が仲睦まじいこと)に力を入れた教育をすれば、老人が重い荷物を抱えて道を歩くこともなくなります。老人が温かいものを着て美味しいものを食べることができる。庶民が飢えや寒さの心配をしなくとも済むようにすること。このような政治を行って王者とならなかった者はいまだおりません。
ところが実際の王の政治はいかがでしょう。自分の飼っている犬や豚には、人間が食べるような贅沢なものを食べさせて、民のために残しておくことをせず、道に餓死者が転がるようなことになっても自分の米蔵を開いて施そうともしない。民が餓死しているのに王は小手先の手段を講じるだけで、やるべきこともせずに『これは私の失政ではない。時機悪く凶作になったせいだ』と言い訳しているのです。これは刀でひとを刺しておきながら『これは私のせいではない。刀のせいだ』と言っているようなものです。王よ、凶作だの時機のせいにしてはなりません。そこを自覚して政治を改めれば隣国どころか天下の民が王を慕って集まってくるようになります」
解説・雑談
人口は国の根幹をなすものです。国力に直結するのバロメーターといえるでしょう。暮らしやすい政治を行ってくれている為政者がいる国に人は集まってきます。恵王もなんとか人口を増やそうといろいろと腐心していますがなかなか思うようにいかない。凶作ともなれば彼なりに知恵を絞って、飢える民を食わせるための方法を実行しているといいます。
我らが孟子は「五十歩百歩」と喝破します。政治の話をするのに戦争の話で喩えたほうが理解してもらえるだろうというところがいかにも乱世といったところですね。孟子は脱走兵を笑う脱走兵のたとえ話をして王に感想を求めます。五十歩だろうが百歩だろうがどちらも逃げたことには変わりはない。程度の差はあっても本質的な違いはない。孟子からすれば、恵王の施策は小手先のものということです。
さて、話は本論から少し逸れますが、これは有名な故事成語である五十歩百歩の出典です。戦争好きの王へ当てこすりのように戦争のたとえ話で答えるという意地悪な孟子の皮肉から生まれた言葉が時代と国を超えて現代の日本にも残っているのです。漢籍を紐解くと大体何かしら現代日本でもそうとは知られずに使われている故事成語に遭遇します。もちろん、孟子も例外ではありません。「え?これも故事成語だったんだ」そんな発見も漢籍にあたる楽しみのひとつかもしれません。
閑話休題。では、五十歩百歩ではない我らが孟子の施策とは一体どのようなものなのでしょう。
まず、なにより一番には民の仕事の邪魔をしないことです。当時の圧倒的大多数の民は農業を生業としています。彼らは一年の間に忙しい農繁期と比較的ゆとりのある農閑期があります。ではこの農繁期や農閑期は民が自分たちで決めているものかといえば、当然ながらそのようなことはありません。農業は季節によって作業が決まっています。種まきの時期を逃せば作物は芽を出しません。収穫の時期を逃せばせっかく実った農作物を無駄にしてしまいます。農繁期の民たちは家族総出で朝から晩まで農作業にあたるのです。猫の手も借りたい。しかも自分たちの生活に直結する農作物の収穫量に決定的な影響を与える一番大事な時期です。
そんな時期に王が事業をする。道路をつくるため、堤防をつくるため、果ては宮殿をつくるため、戦争をするための兵士として民の労働力を徴発する…この時期の働きによって年収大きく左右される大切なときに、労働力を為政者に横取りされる。堪ったものではありませんね。そんな仕打ちをされているのに凶作で食料が足りなくなった。では食料が余っている地方へ移住させてやろう、他所から食料を運んできてやった。自分はいろいろやっていると言われても、民からすれば「何を言っているんだよ」となるわけです。
しかし、農繁期の労役を避けるだけで民は安心して生活できるようになるのかという当然の疑問が出てきます。農業というのは先のような為政者による邪魔や戦争などの人災だけではなく、恵みにも災いにもなる自然環境という最大最強の要因に激しく左右されます。農繁期さえ民たちの邪魔をしなければ大丈夫などということはあり得ません。
ここで孟子が提言しているのは井田制と呼ばれる土地制度です。正方形に区切った土地を漢字の井の字に百畝ずつ九等分する。こうして真ん中の一区画を公田とします。公田の周りの八区画を私田として一世帯に一区画ずつ与えます。公田を私田を与えられた八世帯で管理し、ここでの収穫は税となります。一方で私田は各世帯が管理し、そこから得られる収穫物には税が課せられません。全部、その世帯の収入となります。井田制は孔子が敬愛した周の時代に行われたとされる土地制度ですが、歴史上本当に存在した(実行された)制度であったかどうかは実はかなり怪しいとされています。
ともあれ井田制は政府が土地を与え、それを基本に租税を定めるという中国の土地制度の元祖ともいえる制度。この土地と租税をリンクさせたシステムは後世に行われた三国時代の屯田制や唐代の均田制でも採用されていきます。
孟子からみれば凶作が起きてから手を打つような政治、飢饉に堪えられないような内政は十分ではないということです。平時はいうまでもなく、有事でも民たちが安心して暮らせるように普段から生活物資を十分に蓄えられるようにする必要がある。これぞまた後に出てくる「恒産なければ、恒心なし」です。民に安定した生活が第一である。そのためにここで孟子は井田制をはじめとした提言をするのでした。彼の理念を読み取ることができる場面です。
自身満々な我らが孟子ですが、これを聞いてほとんどのひとは「そんなにうまくいくのか?」と思うことでしょう。おそらくその直感は正しいです。残念ながら彼の提言は乱世にあって国を治める方法としてはあまりにも理念的で楽観的です。しかし、ここで彼が描いた政治が実現できたら天下から民がしたい集まってくる「王者」たりえることは事実でしょう。
井田制の実効性はともかくとして、孟子から見ると王にはまだやれることがある。出来ないのではなく、やっていないのだ。他責思考で言い訳していないで、もう一度、まだできることはないか反省せよ。今回も相手が王であろうと叱咤する我らが孟子でした。
余談ですが、孟子はここで池や沼で捕る資源に魚と並んでスッポンが挙げられているところも面白いです。日本でスッポンといえば魚のように一般家庭の食卓に上がるようなことはまずない特殊な食材でしょう。儒教が理想化した周王朝の官位を詳しく記録した書物『周礼』には、周の時代にはスッポン料理を専門とする「鼈人」という官職が設けられていたとあります。現在でも安徽省ではポピュラーな食材として扱われていて、割と身近な存在であったことがうかがいみることができますね。